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夢のようになるだろう

朝は5時に起きて、着替えたらお弁当作りをする。

以前は6時でよかったのに、高校2年生の次男が「1時間早く学校に行って、静かな教室で勉強したいから、朝ごはんを1時間早くしてほしい」と言い出した。

1時間朝を早くする、ということの大変さをきっとわかっていないのだ。
わたしは憤慨して、ずいぶん強硬に反対した。
勉強のしすぎは体にわるい、とか、朝はしっかり眠ったほうがいい、とか、みんなが勉強するからって影響されてどうする、とか、そんなに勉強したいのなら自分の部屋で1時間早く起きてやればいいではないか、とか。
次男は頑迷なところがあるので、だまったまま、「1時間早く行きたい」とくり返す。

ごく小さいころから彼はこうで、わたしはひそかに「白いものを100回黒いと言い続けて黒にしてしまう人」と彼のことを呼んでいるので、今回も負けた。
わたしはそれほどの意気地が続かないのだ。

5時に起きることに慣れてきたら、それはそれでいいものだなと思うようになった。
まだくらい静かな台所でことこと何か作るのは心落ち着く。
大体5時半くらいになったら空の端が白んでくる。台所の窓からうすく光がさすようになる。

お弁当に詰めたおかずのほんの少しの残りを載せようと、手塩皿を取り出した。
わたしの使っている和食器は、ほとんどが隣町の民藝の品を多く取り扱う店で買ったものだ。その店に通うようになってもう25年になる。

お箸は、毎年年末にここの漆のものを家族分買って、お正月からあたらしくする。
お茶碗もみんなここのものを使っている。子どもがちいさいときには、手にひらにすっぽりおさまるほどの小ぶりのものだったのが、次第しだいに大きくなり、どんぶりみたいな大きさになったなと思うころには子どもは家を出て行った。

窓の近くに置いた赤絵の手塩皿は、うすい朝のひかりをその内側にたたえている。
ちいさな光の量感が、手塩皿に収まっている。

夢のようではないか、と思う。

朝5時に起きてお弁当を作った今日のこともすぐに夢のようになるのだ。
せっせと作ったご飯を毎日食べて、子どもはどんどんわたしよりずっと立派な大人になっていく。
すごいなあ、と思う。
わたしは毎日ぼんやりしてご飯を作っていただけなのに、みんなえらいものだなあと思う。

わたしはいま、今にいて、朝の台所でお弁当を作っている。
窓をうすく開いてみたら、そこからまだ寒い風がしずかに入る。
料峭、と思う。春の風が肌にさむく感じる。

肌にあたる春の風。それもすぐに夢のようになるだろう。
手塩皿のひかりも。それもすぐに夢のようになるだろう。
ぎゅうぎゅう詰めた弁当のご飯。それもすぐ夢のようになるだろう。
わたしが毎日わらったり、くやしがったり、泣いたりしたこと。それもすぐ夢のようになるだろう。

生きている時間は、すぐに夢のようになる。
生きていることは、すでに片方の足を夢に差し込んでいるようなものだ。
夢を見るならば、すごくおもしろい夢がいい。
わたしは楽しいこと、うれしいことより、何よりもおもしろいことが好きだ。

手塩皿に、にらの卵とじの残りを載せる。
手塩皿に先に載っていたひかりがやわらかく撓み、にらの卵とじはフライパンの中にあった時よりもやわらかく見えた。

手塩皿を片手に持って食卓へ向かいながら、「ごはん、できたよ」と声をかける。

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