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「進撃の巨人」から学ぶ『自由であり続けるために進撃することの価値』

今回は、大人気マンガ【進撃の巨人】をピックアップします!

■自由の幅を広げるということ

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僕が進撃の巨人を読んで感じたことは、

「人は制限があるからこそ、自由を謳歌できる」

ということ。

物語の序盤は、壁の外のことを知る行為は、善しとされていない。

みな壁の中でつつましく暮らしたり、憲兵として王に仕えたり、駐屯兵として建前上、巨人から市民を守る立場についたりする。

壁の中であれば、どのような選択をしようが、本人の『自由』だ。

一方でエレンやアルミンのように、外の世界をこの目で見たい、知りたいという自由を求める者もいる。

調査兵団として、壁外調査を許されている者もいる。

壁外への行動が制限されているからこそ、人類の活動領域を広げようという自由であったり、隠されている歴史の真実や、まだ見ぬ壁の向こう側を知りたい!という自由な探究心が育まれる。

・・・この壁の中では、壁内の生活を維持するために商人や農夫や兵隊として生きることもできるし、調査兵団に志願し、壁外へ「狩り」に出ることもできる。

もし壁内に『自由』が全くないのならば、どんな職業に就くのか、自分が何をしたいのかを「選ぶ権利」すらもないだろう。

エレンはハンネスのことを『家畜』と表現したが、これはきっと「壁(ウォール・マリア)の中に囚われているから」という意味合いだ。

そしてもう一つ。

ハンネスや駐屯兵たちが意思なく政府に雇われ、「自分の行動が縛られていることにも気づいていない」から、『家畜』と表現したのでは?

・・・人は必ず、何かに縛られ、行動を制限されているもの。

自分を縛るものが外部からの圧力の場合もあれば、自意識や凝り固まった常識の場合もある。

「自分がどんな壁に制限されているのか」を自覚し、その中で『自由の幅』を広げていくことが、大切なのではないだろうか。

例えばエレンは、壁外にいる巨人という存在が自らの行動を制限しているから、戦って駆逐し、自由に行動できる幅を広げようとした。

ハンネスは超大型巨人が現れるまでは、意思なく言われるがままに兵として働いているような状況だった。

しかしエレンの母親が巨人に襲われた際に、「自分には巨人と戦う力はない」と、自らの力量に制限され、逃げることを選んだ。

これは、ハンネスの意思が伴った、ある意味自由な判断だ。

(自分に力があれば巨人から不自由な行動を強いられることもなかったけれど、今の自分には力がないという現実の中から、最大限の『自由』を選び抜いた)

・・・やがて物語は進み、エレンや調査兵団の念願叶って、壁外のことについて詳しく知るようになっていく。

それを知り、エレンたちの行動はますます『自由』になったはずだ。

だがそこで、エルディア人という「血」に自分たちが縛られていることを知り、自由の中をさまよっていくこととなる。

■進撃を続けなければならない

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エレンは「壁の外には自由があるはずだ」と、それを信じて巨人を駆逐しながら突き進んでいた。

しかしそこに待っていたものは、

「自らが自由であり続けるためには、進撃を続けなければならない」

という現実だった。

もし進撃を止めてしまえば、いずれ他国から攻撃され、その行動を縛られることになってしまうからだ。

・・・その一方で、アルミンや104期生の多くは、この自由の中で「何が正しいのか」が分からなくなっていた。

かつて自分たちが巨人に蹂躙されたように、マーレ国に攻撃を仕掛けるが、新たな復讐の火種を作ってしまうことに戸惑っていた。

仲間たちが殺されていくことに、意味を見いだせなくなっていた。

壁に縛られず外に出られるようになった今、彼らが何をするにも『自由』だ。

だが、自由には必ず責任が伴う。

例えばパラディ島に壁を作ったかつての王は、「不戦の契り」を結ぶことで責任を果たそうとした。

この島から外へは出ないし、他国に侵攻することもないから、という責任の取り方で、エルディア人が犯した罪を償おうとした。

王はエルディア人の「自由を制限すること」を選んだわけだが、その反動として、エレンのような「自由に向かって進撃する存在」を生み出したともいえるだろう。

パラディ島の民の行動を制限し続けてきたことの揺り戻しが、いつかは起こるからだ。

・・・自由を追い求めるエレンだが、彼が何者にも縛られていないかというと、そういうわけでもない。

彼は、エルディア人という「血」に縛られている。

自分の意思に関わらず、巨人になることができるというその「素養」が、この先消えることはない。

その血が理由で、運命的な巡り合わせから進撃の巨人の特性を引き継ぎ、突き進むことを止めず、「進撃し続ける」という制限から逃れることはできないだろう。

自由を追い求めるエレンすらも、血と巨人の特性に縛られているのだ。

■【さいごに】自由とは一瞬の輝き

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今後の物語がどう進んでいくのかは検討がつかないけれど、進撃の巨人を読み進めることで、『自由』について多くの学びを得た。

それは

「自由とは、制限されている状態から外へと飛び出すことである」

ということ。

そして、もう一つ。

「自由とは、自らに制限を課し、その中で最大限に自由を謳歌すること」

でも、あるのかもしれない。

・・・というのも、進撃の巨人に登場する『不自由な存在』として、主に2種類の人間がいると、僕は考えているからだ。

●1種類目は

現状を変えることを望まず、思考を停止したい人たち。
(改心前のハンネスや王都の権力者、マーレの軍上層部など)

⇒壁の中の平和が一生続くものだと思っていたり、権力にすがるしかないから、たとえ今は自由にやれていても、一瞬で上下がひっくり返り支配されてしまう人たち。

●2種類目は

「周りから教わった思想や他者の意図に、自らが縛られている」ということに無自覚な人たち。
(ライナーやベルトルト、憲兵団や名誉マーレ人のガビなど)

⇒ガビは自分の目で見た相手の姿よりも、今まで教え込まれた思想を信じ、思考が不自由だった。ライナーやベルトルトは、自分がやっていることを疑いながらも、自らの意志で自分を変えることはできず、そこに自由はなかった。

子供の頃のエレンやアルミンが壁の外をただ知りたいと思ったり、子供の頃のグリシャが区域外の飛行船をただ見に生きたいと思ったり。

「制限された場所から外へと飛び出す自由」

この意思はとても大切だけれど、その自由を行使した先には、もっと不自由な現実が待っているかもしれない。

調査兵団が地下室の秘密を知って、世界の複雑さという新たな壁にぶち当たったように。

それを知った時に、どうするのか。

もちろん「まずやってみる」という姿勢で、最初に進撃していくことは大事なことだ。

ただその後に大切なことは、自分で自分に制限をかけて、その中で自由を謳歌することなのではないか。

・・・これは決して、他者からかけられた制限を甘んじて受け入れるということではない。

今までの自分が一体何に縛られていたのだろうか?ということを、自由への進撃を通じて学ぶことが大切だ。

それまでは、無自覚に、何かの常識や周りからの要望に縛られていたはず。

それに気がつくためには、まず自由に向かって進撃してみるしかない。とりあえずやってみるしかない。

その自問自答を繰り返すことで、自分はどんな不自由なら受け入れることができて、どんな自由を求めているのかが、きっと見えてくるはずだ。

・・・もしかしたら『自由』とは、その状態を表したり、手に入れるという類いのものではなくて、

自らの意思に従って進撃するという

『一瞬の輝き』のことなのではないか。

と、僕はそう感じている。

自分が「自由であり続ける」には、他者の自由を奪い、支配を続けることでしか成り立たない。

自由を実感するためには、不自由な状態、制限された状態が必要不可欠。

・・・その環境を自ら生み出すことと、その環境から抜け出し、自由へと進撃していき、自らに不自由を課していく(不自由な環境に飛び込んでいく)

これらを繰り返すことが、『自由への歩み』

今回は、こう結論づけたいと思う。

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今後の進撃の巨人も楽しみですね!!

・・・では!読んで頂きありがとうございます(*^^*)

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