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ユトリロの白

今年の夏休みは、初めてパリを訪れた。パリへ行くことは春頃から決めていたにも関わらず、出発日の10日前になっても、ほとんどノープランだったわが家。パリ訪問は楽しみではあったものの、私は日々の雑多なことに、夫は仕事に追われ、なかなか気持ちがパリに向いていなかった。夫が「ルーブル美術館だけはとりあえず行っときたい」と言うので、それだけは事前予約したけれど(それが出発の10日前)、他は特に何も決めず、行き当たりばったり、出たとこ勝負のパリ旅行となった。

とは言いながら、私の中でのゆるい旅のテーマは、パリ訪問の1週間前に突然降ってきていた。それは、“ユトリロ”。パタリロでもカリメロでもない、“ユトリロ”です。モーリス・ユトリロは、パリのモンマルトル出身の画家で、特長のある”白“を描くことで知られる。なんて、さも美術に詳しい人のように語っているけれど、私がユトリロの絵を初めて目にしたのは、パリ旅行のちょうど1週間前の話。そう、パリ旅行のテーマが突然降ってきたその日が、ユトリロの絵との出会いの日だった。
絵と対面したのはその日が初めてでも、ユトリロの名前だけは、何年も前から知っていた。母がくれた梨木香歩さんの絵本『ペンキや』の中に、“ユトリロの白”という言葉が出てきていたからだ。その絵本を読んだときに「ユトリロ?ユトリロの白?どんな色?」と疑問に思ったけれど、その時は詳しく調べることはしなかった。その後も何度か絵本を読み返すことはあっても、結局ユトリロについて調べたことは一度もなかった。それにも関わらず、パリ旅行の1週間前に、思い立ってロンドンのコートールド・ギャラリーを訪れ(2年半ロンドンにいて、このギャラリーを訪れたのは、この時が初めてだった)、初めてユトリロの絵を見た時に、「あ、これが“ユトリロの白”だ」と直感的にわかった。絵の下にあった説明書きを読むと、それはやはり、モーリス・ユトリロ、その人の絵だったのだ。

そんなわけで、私の中でユトリロが急に気になる存在となった。調べてみると彼はパリのモンマルトル出身だという。ごまんといる有名な近代画家の中でも、モンマルトル出身の画家はそういない。そして私は翌週にパリへ行く。旅程はほとんど何も決まっていない。これはもう、ユトリロを訪ねろと言われているようなものではないか。と、得意の関係妄想の風呂敷を広げた結果、めでたくパリ旅行のテーマが“ユトリロ”となったのであった。

それにしても、文章を何度も読んで想像していただけで、それが表現していた絵や色がわかるなんていうことがあるのか、作り話じゃないのか、と思うかもしれない。私自身、自分でも本当に驚いた。なぜわかったのか、今でも不思議で仕方がない。それでも、その絵と対面した瞬間に、その白と向き合った瞬間に、それが“ユトリロの白”だとわかってしまったのは、梨木香歩さんの文章が、“ユトリロの白”を全くその通りに描写していたということだ。

そう喜びや悲しみ 浮き浮きした気持ちや 寂しい気持ち 怒りやあきらめ みんな入った ユトリロの白 世の中の濁りも美しさもはかなさも

しかもただの白ではありません ところどころ若々しい緑や 深い闇を思わせる漆黒に近い紫 黄金の夜明けのようなまぶしい黄金色が滲んでいたり…

それはすべての色を含んだ白 そうです あのユトリロの白でした

『ペンキや』梨木香歩

この文章を読みながら、私は何度もその白を、無意識のうちにイメージしていたのだろう。そしてその言葉が、実際に色と形を帯びて私の目の前に現れた。それは、初めて訪れた場所なのに以前訪れたことがあるような、デジャヴのような感覚だった。

言葉。

言葉にならない、言葉があふれる
言葉では伝わらない、言葉でしか伝わらない
言葉によって救われる、言葉によって傷つけられる

どれも相反することなのに、どれも起こりうる。同じ言葉ひとつをとっても、意味の捉え方、音の響き方、文字の見え方、その言葉から連想されるものは、人によって異なる。だから、言葉によるコミュニケーションの中では(もちろんそれ以外でも)、様々な誤解や軋轢が生まれたりする。それでも、人は、私たちは、言葉を使って他者と関わろうとする。言葉によって、他者と自分の間にある隙間を埋めようとする。人はひとりでは人間にはなれず、誰かと関わり合い、間を持つことによって人間となる。そして、その、人と人とのあいだにあるのが、あいだ、愛だ。
とりとめもなく、そんなことを何年も前に考えたことがあった(当時流行っていたSNS のハシリ、mixiに書いた記憶がある)。そうしたら、つい最近、友人も同じようなことを言っていたので、なんだか恥ずかしいような、こしょばい(こそばゆい)気持ちになった。

人と人との間の取り方は、文化的背景によって大きく異なるし、同じ文化の中でも、家族の中でさえ、人それぞれ違う。自分と誰かとの間がなく、ぴったりと埋まるような感覚を持つ人もいるかもしれないが、そこには抗いようのない、埋めようのない間は必ず存在する。それを埋めるために、言葉を探す。どうしても言葉が見つからないときには、音にしたり、色にしたり、形にしたり、動きにしたり、様々な、それぞれの方法で、間を表現しようとする。それらの表現そのものが、愛なんだろう。そして私は、音、色、形、動きではなく、できる限り言葉によってそれを表したいと思っている。梨木香歩さんが示してくれたように、私も自分で見たもの、聞いた音、感じたことを、言葉で伝えられる人になりたい。言葉の力を、言葉の可能性を、信じているから。言葉によって生かされ、言葉によって自分が自分たりうると、信じているから。

パリ旅行のテーマの話から、逸れに逸れてしまったけれど、今、私が言葉にしたいことは、こういうことだったのだ。