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世の中で最も美しいものを見た

昨日、"The Museum of the Moon"というアートイベントを鑑賞しに行った。ある教会の中に50万分の1サイズの月の模型を展示するというもの。たまたまインスタでその画像を目にし、家からさほど遠くない場所にある教会でのイベントだったので、家族揃って足を運んでみたのだ。

教会入口前で係の人にチケットを見せているときから、その大きな月の姿が見えていた。スマホの動画カメラをONにして、撮影をしながら教会へと足を踏み入れた。古い建物特有のカビ臭さを感じながら月を見ていると、その月が巨大なカビの胞子のように思えてきた。いやいや、あれはどう見たって月だろう、すぐに思い直したら、ちゃんと月に見えた。既にたくさんの人がいて、みな月に向かってスマホを構えている。真ん中の通路には、月と一緒に写真を撮ろうと並んでいる人たち。これが日本で行われたイベントなら、というかそこにいる人がみんな日本人だったならきっと、後ろに並んでいる人がいると1組が2.3枚写真を撮ったら、次の人に交代するだろう。しかし、後ろに並んでいる人を気にして写真を撮っているような人は誰もおらず、みな、自分たちの納得のいくまでポージングを取り続け、何度もシャッターを押しまくっていま。私たちはというと、こどもたちだけを月の下に立たせて、3枚くらい撮影してそそくさと前に進んだ。誰に急かされた訳でもないのに、こういうところでは、どうしようもなく日本人的になるのです。

月の下を通り、そのまま前へと進むと、そこには祭壇があった。「JESUS」と書かれた台座の上に立つ羊の周りに跪く天使たちの画を中心に、たくさんの天使や聖人の画が描かれていて、その画の意味するところを理解していない私でも美しいと感じ、目を閉じ、手を合わせた。しかし振り返ると、祭壇の方を向いている人は誰一人としておらず、全員が祭壇に背を向けて月の方を見ていた。こちらもまた、みなそれぞれに月と一緒にスマホの画面上に映し出され、切り取られるのを待っていた。

妙な違和感を覚えた。ここは教会であり、神様に向かって祈りを捧げる場所であるはずだ。しかし、祈りを捧げている姿はどこにもなく、みな月を見て、スマホの画面を見て、そこに映る自分の姿を見ている。もちろん、目を閉じたり、手を合わせたりしていないだけで、心の中で祈っている人はきっといただろう。目を閉じて手を合わせなくても、祈ることはできるのだから。しかし、やはりその時その場にいたほとんどの人にとっては、もちろん私たちも含めて、そこは祈りの場ではなく、アートイベントを楽しむ場所となっていた。真ん中の祭壇の両サイドにあった聖母礼拝堂にも、聖餐用礼拝堂にも、両側の通路や、入口横に設置されているキリスト像やマリア像の前にも、祈る姿はなかったし、それらを見ている人さえ、ほとんどいなかった。

教会としても、アートイベントを開催することに協力しているわけだから、そこに祈りの姿がなくとも別段、何も問題はないのだろう。クリスチャンであろうとなかろうと、そこに神への信仰があろうとなかろうと、そんなことは誰も気にしていないのだろう。だって、それはアートイベントだし、他でもない私自身も、その教会に祈りを捧げるために訪れたのではなく、イベント鑑賞のためにやってきたのだ。それなのに、どうしようもなく違和感を覚えるのは、なぜだろう。

そんなモヤモヤした気持ちを抱えたまま教会を出ようとしていると、息子が「お母さん、ロウソクの火を点けてもいい?」と尋ねてきた。通路の端に、教会のポストカードを売っているテーブルがあり、そこにロウソクも置かれているのを見つけたのだ。「いいよ」と応え、娘にも一緒にやるかと尋ねたら、娘は首を振ったので、息子に£1コインを渡して、自分で売り場の人にロウソクをくださいと言うように伝えた。すると、その売り場にいたショートカットの優しい瞳をした年配の女性は、笑顔で「Thank you」と言いながら息子にロウソクを渡してくれて、「あなたも持って行きなさい」と娘にもロウソクを渡してくれた。先ほど、やらなくていいと首を振った娘だったけれど、せっかくくれるなら、とロウソクを受け取った。

ロウソクを灯す場所は教会内に数ヶ所あり、どこに置いてもいいとのことだった。息子は、ロウソク売り場のすぐ横にあった幼子と聖人が手を繋いでいる像の前を選んだ。その像がイエスなのか他の誰かなのかもわからなかったけれど、息子は真剣な眼差しで像を見つめた後、丁寧な動作でロウソクに火を灯し、燭台に供えた。娘は、聖母礼拝堂の手前にあった幼子イエスとマリア像の前を選んだ。娘もまた、息子と同じ真っすぐな眼差しで、ゆっくりとロウソクに火を灯し、燭台に供えた。その姿が、なんとも言えず、わが子ながら美しかった。そして私たちは、教会を後にした。

帰り道、息子が「僕、幼稚園のお礼拝のお当番で、鐘撞きとロウソク消しはやったけど、ロウソク点けはやってなかったから、やりたかったの」と言った。娘と息子が奈良で通っていたのは、キリスト教教会に付属する幼稚園だった。年長クラスになると、毎週金曜日の週末礼拝と、月に一度の親子礼拝の際の"お当番"があった。それは、礼拝の初めに、祭壇にあるロウソクに火を灯す係、同じく礼拝の初めに鐘を撞く係、そして礼拝の終わりにロウソクの火を消す係、の3つだ。息子は、鐘を撞く係とロウソクの火を消す係はやったことがあったのだけれど、ロウソクの火を灯す係はできないまま、渡英のために途中退園したのだった。そのことについて、私はあまり深く考えていなかったのだけれど、息子としてはとても残念に感じていたのだろう。でなければ、退園して8ヶ月も経った今になって「ロウソクの火を点ける係をやりたかった」なんて言わなかっただろう。その言葉を息子から聞いたとき、さっきまで感じていた教会内での違和感は消えた。

3歳から、神様にお心を向け手を合わせて祈る毎日を幼稚園で過ごし、そして今もカトリックの小学校に通う息子が、どこまでキリスト教を、神様の存在を、神の子イエスや聖母マリアの存在を信じているのかは定かではない。もしかすると全く信じていないかもしれない。昨日、教会でロウソクに火を点けたいと言ったのも、信仰心からではなく、"ロウソクに火を灯す"という単なる行為として、やってみたかっただけかもしれない。しかし、ロウソクに火を灯し、供え、しばらく火を見つめている間の息子のその表情は、その行為を"楽しんでいる"という風には見えなかった。私には、それは間違いなく"祈り"の姿に見えた。だからこそ、その姿を美しいと感じたのだと思う。そして、息子の秘めた想いにも、本人の意図せざる"祈り"を感じたからこそ、それまで感じていた"祈りのない祈りの空間"への違和感が払しょくされたのだろう。

白洲正子氏は、エッセイ『美しくなるにつれて若くなる』の中でこう書いている。

わが身も心もささげつくして、すべてを忘れ、すべてを神様にお任せする、――お祈りとはそうしたものをいうのです。(中略) 
神に祈る姿は、世の中で最も美しいものの一つです。

私は自分の息子に、その姿を見ることができた気がする。とてもいい夜だった。