見出し画像

ゆるデトックスのススメ

ちょいと家族旅行をしておりました。
普段はスマホを手放さない、SNSばかり見てしまう私も、せっかくの旅行なんだし、ゆるデジタルデトックスをしよう!と思い、noteもお休みしておりました。

完全なデジタルデトックスではなく、移動時間と、朝昼晩に数回はスマホをチェック。チェックしたところで、私は仕事もしていないし、何も急用の連絡なんて入るわけもないのだけれど、それでも完全にデトックスできない私は、やっぱりスマホ中毒なのなだろう。
それでも、悪あがきとして、ネットニュースやSNSは可能な限り開かない、開いてもワンスクロールくらいで閉じる、などと意識してはいた。"意識してはいた"ということは、"意識しなければ"延々と見続けてしまうことの裏返しだ。やっぱりスマホ中毒だな、確定。

これまで3ヶ月間毎日noteを書くことを習慣にしてきたし、インスタも毎日ではないにしろ、それなりの頻度で更新していたので、何も発信しないと、何かもの足りないような気が…するような、しないような。いや、しなかったかな。発信しない代わり、というわけではないが、受信する方に勤めようと思い、本を三冊、カバンに入れて持って行った。しかし、一人旅ならまだしも、家族旅行である。そんなにゆっくりと本を読む時間が与えられるはずもなく、結局一冊しか読めなかった。

唯一読んだ一冊は、小川洋子さんの「深き心の底より」というエッセイ。この本は、奈良にいた頃に駅前の古本屋でなんとなく手に取った一冊だった。買ったものの読まないまま、引越し荷物のダンボールに入れ、船に乗って海を渡ってロンドンへとやってきた本。なぜ、今回の旅のお伴にこの本を選んだのかはわからない。古本屋で手に取ったときと同じく、なんとなく手に取っただけだ。しかし、このタイミングで読む本として、とても良い本だった。小川洋子さんの言葉の選び方が好きだなぁと感じ、彼女の小説を読みたくなった。「博士の愛した数式」だけは読んだことがあり、とても印象に残った小説だった。数学嫌いの私が"素数"というものに興味を持つきっかけをくれた本。久しぶりに読み返したいが手元にない。こういう時に、日本語の図書館がない環境を、とても恨めしく感じる。

あれ、何の話をしてたんだっけ。そうだ、旅行中の話。デジタルデトックスの話。スマホとほんの少しだけれど距離を置き、画面ではなく本の中にある言葉を追いかけていると、言葉の受け取り方が異なることに気がついた。

スマホ画面で読む言葉は、まぶしい。それはもちろん、言葉そのものが輝いているわけではなくて、画面が光っているからなんだけれど。物理的にまぶしい言葉で表現されているから、その内容が明るく楽しいものである分には、素直にそのまま明るく楽しく受け止められる。けれど、その内容が暗く悲しいものである場合、その暗さや悲しさをそのまま受け止めることができないのではないかと感じた。画面のまぶしさが、言葉の奥にあるはずの本当の暗さを打ち消してしまっているような気がしたのだ。それだけでなく、大切なことを書いている部分とそうでない部分の全ての言葉の重みが、画面のバックライトにより、均一化されてしまっているような気もした。

反対に、紙に書かれている言葉には、明暗がちゃんとある。不必要に均一に照らされていない言葉は、その内容とともに、明るさも暗さも感じられる。自分の心で、言葉の明暗を調整できるということかもしれない。
そして、なぜか紙に書かれている言葉は、物理的にはどれも輝いていないはずなのに、どれも同じ紙の上にある言葉なのに、自分の心に響くような、自分の琴線に触れるような言葉だけは、その言葉だけが輝いているように、その言葉が私に訴えかけているように、浮かび上がってくる気がするのだ。この感覚を、スマホで文字を追いかけていて感じたことはない。紙の本でしか得ることのできない感覚だ。そして、とても豊かな感覚だ。

普段の生活でも本を読むけれど、この数日間、スマホと距離を置いたことで、本を読むことでしか得ることのできない感覚に、改めて気がついくことができた。たとえゆるゆるだったとしても、デジタルデトックスをした甲斐があったということだ。旅行のときに限らず、たまにはゆるデトックスをしようと思う。