見出し画像

小説のリアリティ

今、書いている小説の話。

プロットがまとまってきたところで、取材の話になった。

小説を書くため、作家が取材をすることがあるのは知っていた。作品の紹介などで「これは綿密な取材に基づいて書かれた」みたいな説明があるから。だけど、作家がなぜ取材をするのかは、何となくはわかるけど、何となくしかわからない。

ライターとしての取材は経験している。場所や人を訪ね、空気を感じ、話を聞く。そして、それを記事にする。どこをどう切り取るのかという工夫はあるけれど、創作はない。書かれた記事は、取材があるからこそ成り立つものになる。

でも、小説の場合はどうなんだろう?

事実に基づいた作品もあるけれど、そうではない、作者の中だけでつくられた話の場合、出てくる人物もエピソードも、現実世界のものではない。今、私がつくっている小説も、そういう類のものだ。登場人物と似た人から話を聞いたとして、そこに、その人のエピソードや考えを小説に落とし込んだとしたら、それは、「作者の創作した物語」だと言えるんだろうか?

それで、「なぜ取材をするんですか?」と、(いつものように)編集長に聞いてみた。素人っぽいこの質問に、彼は「小さなウソをつかないためです」と答えた。そう言われて、私は、自分が村上春樹を読み始めた頃のことを思い浮かべた。

私が初めて読んだ村上春樹の作品は、「ノルウェイの森」だった。それに感動した私は、すぐさま次の作品を手にとった。それが「ダンス・ダンス・ダンス」だったか「羊をめぐる冒険」だったかは忘れてしまったけれど、自分が、物語の中ほどに突然現れる非現実に、ひどく驚いたことは、とてもよく覚えている。

これらの作品を読んだことがある人はご存知だろうが、「ノルウェイの森」は、100%のリアリティ小説だ。(ものすごく)奇妙な人物は(たくさん)登場するけれど、この世界の物理的法則を無視したことは、ひとつも起こらない。「絶対に絶対にありえない」とは言い切れない物語だ。

最初にそれを読んだ私は、村上春樹の書くものは全て同じタイプのものだと思い込んだ。だから、2つ目の作品で、「いるかホテル」だとか「羊男」だとかが現れた瞬間、なんだか殴られたようなショックを受けた。「なにこれ」と、実際に口にもしたと思う。

だけど、私は読むことをやめなかった。それどころか、あっという間に、「いるかホテル」があり「羊男」がいる世界に慣れた。その世界を信じた。なぜなら、その大きなウソが、たくさんの小さなリアリティの上に積み上げられていたから。

主人公の食べるもの、読むもの、聴く音楽、人とのつきあい、世間への考え。かなり偏ってるとは言えるものの、物語は、たくさんのリアリティに満たされていて、それが大きなウソを支えていた。そのバランスが、とても魅力的だった。

そして、そのバランスは、小さなウソが混じった途端、きっと崩れてしまうのだ。

推理小説で言いかえてみれば、読者は、名探偵が行く先々で事件に巻き込まれるという大きなウソは受け入れても、犯人があり得ない電車のダイヤで移動したり、被害者が何の理由もなく見知らぬ場所を訪れたり、一般の高校生である探偵が、たまたま昭和の文化に詳しかったりすることは、受け入れてくれないということ。


そうして「小さなウソをつかないこと」の大切さを理解した私は、先日、小説のための取材を行った。

私の小説には、今のところ、「いるかホテル」も「羊男」も「殺人事件」も登場する予定はない。けれども、読者が小さなウソでつまずくことがないように、細かなリアリティを積み上げていきたいと思っている。



この記事が参加している募集

コンテンツ会議

サポートいただけると、とてもとても嬉しいです。 もっとおもしろいものが書けるよう、本を読んだり映画を見たりスタバでものを考えたりするために使わせていただきます。