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固有名詞の消滅

 インターネットを使っていると、しばしば匿名性ということが話題になる。「不特定多数」に紛れ込んだ個人が著名性のあるタレントを攻撃するというようなもので、近年は社会的にも厳罰化の傾向にあるし、そもそも見ていて快いものとは言えない(当然ミュートやフォロー解除なんかで対応している)。自分の沽券に関わる事柄であるとか、よほどのことが無い限りネットで口論はしない。
 私はある時期から本名(ローマ字だが)と併記しているのであまり関係ないのかなと思っていたが、辞書で調べる限り、どうやら本名を出せば良いというような単純なものでもないらしい。

地域・血縁的結合が崩壊していく過程のなかで,社会統制の届かない都市社会で最も顕著に現れてくる大衆化の条件の一つ。集団の巨大化,マス・メディアの発達,分業化,社会的移動や激化のなかで,都市社会の成員は,機構の歯車として,また巨大な集団の生み出す権力によって画一的行動様式をとることを余儀なくされる。さらに面識のある集団の拘束を離れれば,不特定多数の人々の一員となり,個人の行動は隠蔽され,自己の行動に対する個人的な責任は回避される。ここに匿名性が進行し,大衆化を特徴づける条件の一つとなる。


ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「匿名性」
コトバンクより、太字引用者

 一瞬難しい言葉が並ぶが、どうやら(社会統制の届かない都市社会において)社会の拘束から自由になることが「匿名性」を獲得することで、本名が出ていたからといって匿名性を捨てたということにはならない。ハンドルネームや芸名、なんなら正体不明のまま匿名性を失うケースも存在する(芸術家だと東洲斎写楽、バンクシーなんかが該当するだろうか)。この場合の名前というものは、「不特定多数」に逃げ込む個人を社会に引き戻すための手段でしかない。

 とはいえ、名前を出すようになって、なまじフォロワーというものが気になるようになって(Instagramの話です)、多少なりとも責任を感じるようになったのか、なるべく「不特定多数」の書き方をしないようにとは心がけている。そのなかでも顕著に減ったものの一つが「愚痴」で、あったとしてもそういうものは完全非公開の日記につけたり、記録すら残らないオフラインの世界で言うことが多くなった。

 その中で、他人の投稿を見てて思ったのは、酒の席なんかでは「課長の○○が…」と個人名を挙げて愚痴ったりすることがあるが、ネット上では「上司が…」と代名詞じみた曖昧な言葉になっており、個人名を挙げて愚痴っている人はほとんど見ない。そういった固有名詞の情報から個人が特定されれば、彼は匿名性を持った「不特定多数」の一人ではなくなる。
 それがさらに進むと「上司」という"代名詞"すらなくなり、その課長の所業をあげつらい、「こういう人っているよね」というような書き方へと変化していく。英語で言えば、He/She is ~の構文がThere is a man/woman who ~の構文へと変化していることになる。特定を避けつつ愚痴を言うなかでもかなり曖昧な書き方で、率直に言えば私自身、そういう書き方をしたこともある。

 言っているほうとしては満足かもしれないが、問題はそれを聞かされる側で、「で、誰?(俺のこと?)」という気持ちになってしまうこともある。明らかに違えばまだ良いが、自己認識とほんの少しかすっていることもあって、話者が主語を特定していない以上、候補として私自身を入れざるを得ないことがある。もちろん確証はない。聞いたところで面と向かって答えてはくれないだろうし、答えられたらそれはそれで怖い。

 こういう経験は10数年、何度も経験してきた。ある時期までは耐えられたが、年齢もあるのかいわゆる「SNS疲れ」なのか、最近は聞いていて疲れることも増えた。もちろんミュートやフォロー解除で対応しているのだが、そのおかげなのか、最近はSNSが静かになってきた。原因がもしも「消えた主語」に対する誤解、行き違いに起因するものならば、それはそれでもどかしい。

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