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僕は「"発達障害は天才"論」が許せない

なぜ、いつまで経っても発達障害支援から「"発達障害は天才"論」がなくならないのかについて考えてみました。


0.まえがき

※まえがきの内容は僕個人の特性とエピソードが含まれており、発達障害特有の性質、発達障害者の一般的な例ではありません


僕自身が発達障害(ADHD)と双極性障害(たぶんⅡ型)で、今年で32歳になります。
そして「"発達障害は天才"論」がどうしても許せません。


なぜかと言えば「僕自身がこの価値観に縛られた時期があったから」です。

僕はウェクスラー式知能検査「WAIS-Ⅲ」で言語性IQと動作性IQの差が45あり、群指数では最大76もの差があります。極端に言語性優位で聴覚優位です。(発達障害者には動作性優位の人も視覚優位の人もいます)

この能力のバラツキに発達障害の特性が加わり、小学生の頃からどこか自分は他人と大きく違うと感じていました。

遅刻が多く、提出物は出さない、黒板も書き写せないし、授業はいつもうわの空で、運動も苦手。
でもたまに自分の考えを言うと、みんなが感心してくれることがある。

「みんなが当たり前に出来ることが全然出来ない一方で、みんなが出来ないことが出来たりする」

こんなことを何度か経験しました。

親や友人、教師などからも一目置かれているような感覚になり、
そしていつしか僕はこう思うようになりました。

「僕には"みんなにはない才能"があるのかもしれない」と。

最初は良かった。

それまで低い評価を受け続けて低下していた自己肯定感が一気に戻る感覚がありました。

このことについては後述しますが、これは条件付きの自己肯定感(自尊心)であり、一過性のものでした。
極端に言えば「麻薬」です。

僕は結局「自分が天才かもしれない」という価値観に縛られ(これだけが原因ではありませんが…)、10年も立ち止まってしまいました。

だから僕は、無知な人の安易な助言がどうしても許せません。

勝手に勘違いした僕も悪いとは思いますが、Twitterを見てる限りこの主張に対しては他の発達障害当事者も否定的な人が多いように感じます。

それにも関わらず「"発達障害は天才"論」は、何故まことしやかに囁かれ続けているのか…

その理由は5つあると思います。

目次

0.まえがき
1.実際に発達障害者の中に天才がいる
2.「溺れる者は藁(わら)をもつかむ」
3.福祉の世界は「根拠」より「想い」
4.支援者が資本主義に飲み込まれている
5.蒔いた種を刈り取るのは他人
6.まとめ

ここから5つの理由の詳細を書いていきます(ここから本文)。


1.実際に発達障害者の中に天才がいる

発達障害と思われるような特性がありながらも大きな功績を残した「天才」と呼ばれる人たちは確かにいます。

「"発達障害は天才"論」を主張する人たちが最も拠りどころとしている根拠がこれです。

アルベルト・アインシュタイン
トーマス・エジソン
ビル・ゲイツ
スティーブ・ジョブズ
トム・クルーズ
イアン・ソープ
…etc

そもそも論として、この根拠は本人が公表している場合ならまだしも「診断の有無」や「本人の困り感」が不明なのにも関わらず、断片的なエピソードから彼らが発達障害であると勝手に断定してしまっていることに"重大な問題"があります。

ただ今回はこの問題は置いておくことにして(僕が書きたいこととズレるので)、

その上で彼らが発達障害であると仮定できるのであれば、「こだわりや過集中など発達障害の特性の一部が彼らの功績の一助となった」と言うことは出来るかもしれません。

ただし、それでも「発達障害者の中には天才もいる」と言えるだけで「発達障害者は天才」「発達障害者に天才が多い」とまでは言えないはずです。

上のツイートでも書いているように、発達障害の特性(過集中など)があるからといって必ずしも天才とは言えないのです。


2.「溺れる者は藁(わら)をもつかむ」

発達障害で悩んでいる人やその親はまさに「溺れる者」です。
発達障害を抱えながら生きていく人はギリギリの所で踏ん張っているんです。その人たちに藁(甘い言葉)を投げれば掴むのは当然の反応です。

また「"発達障害は天才"論」を主張する人で、客観的なデータを示している人を僕はまだ見たことがありません。
客観的なデータを提示できなければそのことが真実であると証明することは出来ませんし、この主張は真実でなければ"藁"(気休め)でしかないのです。

そして、今まさに溺れて助けを求めている人に対して藁を投げる行為を、僕はとても褒められる行為だとは思えません。

しかも、この主張はただの藁とも限りません。最初こそただの藁に見えますが、自尊心を潰す「毒の塗られた藁」である可能性もあります。このことについてはで詳しく書きます。


3.福祉の世界は「根拠」より「想い」

でも書いたように、「"発達障害は天才"論」を主張する時やその主張に反論があった時に客観的なデータを示す人を僕は一度も見たことがありません。

「"発達障害は天才"論」を主張する人はいつも、数名の天才の名前を挙げて根拠としています。
純粋な人ほど、まるでそうであるかのような錯覚を起こしてしまいますが、この根拠には欠陥があります。それは「分母」です。

文部科学省が2012年に全国の公立小中学校で約5万人を対象にした調査の結果で「発達障害の可能性がある(支援級は含まない)」とされた児童生徒の割合は6.5%です。
発達障害は治るものではないことを考えると、世界の人口約76億人に対して約5億人の発達障害者がいると考えることも出来ます。  

ただし、発達障害者の割合は国によって違う(日本は高いらしい)ので、この数字は正確ではない可能性があります。

それでも全世界の発達障害者の人数をどれだけ少なく見積もっても、たかが数人から数十人の天才を挙げただけでは「発達障害者は天才」「発達障害者に天才が多い」と言えないことは明らかです。

でも福祉の世界は「根拠」より「想い」を重要視する人が多いようで、理屈はあまり聞いてもらえません。
この主張も「障害者の為を想って」の主張だと思われます。

想いを重要視すること自体は絶対的に悪いものではないですが、「想い」というものは目に見えない分だけ扱いに細心の注意を払わなければならないものです。

僕は「"発達障害は天才"論」こそ、「想い」を安易に利用した挙句に起きている悲惨な事故だと思います。


4.支援者が資本主義に飲み込まれている

「"発達障害は天才"論」は、発達障害者の自尊心を回復させる為の優しい言葉に聞こえる人もいるかもしれません。しかし僕には全くそう聞こえません。

なぜなら例として挙げられている天才が、資本主義において成功している人ばかりだからです。

要はこの主張における天才の条件は「現代社会で成功すること」ということです。

それはまさに「発達"障害"」を生み出す根本的な原因となっている「資本主義における(古典的な)能力主義」(お金を多く稼いだ人ほど価値がある)に基づく価値観です。

発達障害者は現在の資本主義では評価されにくいから「障害者」なのに…

結局、支援者の心の奥底に「資本主義で成功する=存在価値が高い」という価値観があり、しかもそのことを自覚できてきいない為にそれをそのまま障害者に押し付けてしまっているのです。

これは悲惨な事故以外の何物でもないと思います。

まえがきでも少し触れましたが、
そもそも自尊心というのは条件付きであってはいけません

「勉強が出来る自分は尊い」
「仕事が出来る自分は尊い」
「お金持ちの自分は尊い」

これは自尊心ではありません。

自尊心というものに根拠は必要ないんです。
「特に理由はないけれど自分は尊い存在である」と思えることが、自尊心であり自己肯定感なんです。

ちなみに自尊心と自己肯定感が回復する方法?

かの有名な借金玉さんも言っているので間違いないでしょう(笑)

とにかくここで言う「発達障害は天才」という古い資本主義の価値観を刷り込むことは、むしろ障害者の存在意義を否定しているようなものです。

この価値観は「発達障害は天才だから凄い」という条件付きで一時的に自尊心を回復させているだけなので、その人が資本主義で成功できなかったら、その人は自分を全否定してしまう危険すらあるのです。

この全否定してしまう危険というのが、の最後に書いた
自尊心を潰す「毒の塗られた藁」のことです。

投げられら瞬間はただの藁に思えても、時間が経つと毒が回って動けなくなるのです。


5.蒔いた種を刈り取るのは他人

最後の理由は「"発達障害は天才"論」は、功罪の"罪"の部分が見えにくいということです。

思春期など自己肯定感が低下している時にこの主張を知って、それを信じて生きてきた発達障害者が途中で「自分は天才ではない」と感じた時、かなりの焦りや不安、人によっては絶望感を覚えます。

それでも、自己実現やアイデンティティに関して理想と現実の間で葛藤を繰り返しつつ、心を擦り減らしながら何とか折り合いをつけて生きていっているのです。

障害者支援では、一人の障害者を子供の頃から大人になるまで同じ支援者がフォローアップし続ける例はほとんどありません。
医療や福祉で働く方なら知っていると思いますが、障害者支援の世界は小児と成人を分けて考えているのです。(最近は包括する考え方も出てきている)

だから療育などで当事者や家族が負った傷を、負わせた支援者が癒やさないということはよくあることです。それどころか傷を負わせたことにすら気付いていないケースもたくさんあるのです。

「自分で蒔いた種を自分では刈り取らない」

だから"罪"が見えにくい。でも、見えにくくてもそこに"罪"はあります。

確実に。


まとめ

僕がこのテーマに特別強い思いを抱いていることは事実です。みんながみんな、ここまで強い感情を持っている訳ではないことも理解しています。
でも、最初のアンケートからも分かるように不快感を持っている当事者が少なからずいるというのも事実です。
そしてそれなら改善した方がいいじゃないですか。

もしかしたら「"発達障害は天才"論」には、僕の知らない効用があるのかもしれませんが、少なくともWEBメディア、テレビ、新聞、書籍、SNS等、不特定多数に向かって発信するメディアで、支援者と名乗る人たちが軽々しく言うのは著しく配慮を欠いた言動であると言わざるを得ないと思います。

僕の結論としては、
「安易に発達障害は天才だと言うべきではない」ということです。
発達障害者の支援に関わっている人なら特にです。
一般人が言うのと、当事者が自ら言うのと、支援者が言うのでは、意味が全く違います。



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