「不安に共感できる」のが不安

「現状維持では後退するばかりである。」とはえぎわは宣言する。はえぎわとは、頭髪とおでこの境い目であり、とある雑誌のタイトルでもある。その宣言は、薄毛のリスクを語りつつ、ささやかな将来への配慮を呼びかけてもいて、1.ひとりの人の心身に起きること、2.組織・集団が体験すること、3.社会と呼ばれる大きくて重たいものの共同体が直面することといった、それぞれに大きさの異なる問題を、同じ言葉で考えさせてくれる。

どうすれば後退を防げるのか。マクロ経済学はその方法を「成長」と呼ぶ。老いて枯れることではなく、ある組織が――言語圏が、国家が、産業が、市場が、企業が――広がりと膨らみを増すこと。生産・流通・消費の総量を測定し、前と比べてどうか、将来は変わるかを調べれば、その組織が「成長」を遂げているか分かる。はえぎわで喩えるなら、生え、伸び、抜けないこと。切ったり、整えたり、洗ったり、乾かせるくらいはあること。


企業の戦略とか経営とか財務の話をするとき、投資家はこのことを「(付加)価値を生み出す」と言うらしい。ごく最近になって知った。価値とは、たとえば雇用であり、商品であり、設備投資であり、売上高であり、税引後営業利益であり、株価収益率であり、時価総額である。ある組織に資本(より抽象的には、エネルギー)が投じられ、その組織が何らかの事業(仕事の、もしくはリスクの総体)を営むとき、その事業が生産し、消費し、負債を返したあとに残るもの。

「で、何が得られたの?」この問いは心を鋭くえぐる。大変な労力で、心血を注いで、ぐるぐると事業を回したわりに、どうも疲れるばかりで、ちっとも前に進んでいる気がしない。だとしたら、その組織はあまり価値を生み出せていないのかもしれない。かといって、事実が変わらないのに、数字にやたらとお化粧するのは本末転倒であって、報告書の修辞に凝っても仕方がない。企業はじぶんが思うほど賢くないし、市場は企業が思うほど愚かじゃないのだから。

その持続性をどう身につけるか。寿命のある特定の個人にではなく、参与と活動と退場のくり返しで維持される場に。ワンシーズンごとに使い捨てされる組織は星の数ほどある。いくら時代が変わっても、だれかしらそれを受け継いで、何世代もの生死を見届ける、不死鳥のような事業もある。別にそこまでじゃなくても、企業の10年後生存率は約26%だというし(中小企業庁, 2006)、小さな組織のほとんどは5~6年で市場から消えていく。

一瞬の輝きで伝説になればいい? でも、その伝説は、長い長い歴史のなかで、何人に記憶されうるだろう。数ヶ月前に数百万回再生された数分を運よく撮影できたきみのことなんて、世間はもう少しも思い出せないのに……。なんとなくだけど、思いのほか多くのひとが、ここまで書いてきたような、共同体の存続と安定に関する「悩み」を、個人と集団と文化圏を縦断的につなぐ語彙を用いて、考えたがっている気がしてならない。


もちろん、僕がそう思うのは、僕の年齢と居住区、主要な情報源、交友関係によるバイアスが、僕の考え方に少なからず作用しているからだろう。都市部に暮らす国民平均年齢未満の大卒者で、デジタル化された文字による情報収集を好み、交友関係にコンテンツ産業の当事者が多いとなれば、「そういうやつ」の周辺で暮らす人物たちは、カンパニーやチーム、プロジェクト、ユニットといった大小の単位で働く経験値も増えて、個人の技術習得よりも、組織開発の方法が気になってくるものだろう。市場縮小が進んでいた諸文化の次なる担い手として、ともすれば、家族形成や資産計画、環境問題と同じくらい/より以上に、じぶんが所属意識を持つ芸術表現の将来のことを考えるだろう。それはむしろ自然なことだろう。

とはいえ、それらのバイアスを考慮したうえでも、その「悩み」が「いつの世もありふれたもの」ではなく、「これからゆっくりと起きる変化に伴うもの」だとしたら……と、僕は長らく考えている。まだうまく言葉にできないものの、未検証の直感はあり、その直感はこう書ける。21世紀も四半期が過ぎようとしているけれど、今世紀が何かしら「新しさ」を主張できる時代になるとしたら、そのひとつの特徴は、「じぶんの表現が、いずれ/すぐさま消えてなくなることの不安」を、前世紀とは比べものにならないほど大量の人口が、言語や国境を越えて、広く共通して抱えられるようになったことにあるんじゃないか。

その不安がほんとうに広まっているのか、じっさいに大衆性を得るにいたったのか、詳しく点検してみる意義はある、と信じたい。その不安に新規性や独自性があるかはさておき。そんな気がする。気のせいかもしれない。都市化した社会にありふれた憂鬱や、コミュニケーション全般が持つ原理的な伝達しづらさと、いま、考えようとしていることの、何がちがうんだろう、とも感じる。


さしあたり、話を文章表現に限って、直近20年を雑にふり返ってみる(ほとんど信用できない記述として読んでください)。教育水準の向上と情報技術の普及は、先進国に、芸術としての言語表現を試みたことのある人々(言語芸術の生産-消費経験人口)を増やしただろう。地球全土の都市化が進むにつれ、新興国には、職業としての言語表現に従事する人々(言語表現の就業人口)を増やしただろう。その双方が、「あとに続かないこと」に「不安」を抱える「大量の人口」の増加に寄与したようにみえる。

もったいぶった言い方をするのは、2015年の「国勢調査」によると、2015年の「文芸家, 著述家」「記者, 編集者」の人口は約10万人(就業人口の0.18%)で、2000年の人口(約13万人)と比べると、この15年で19.7%ほど減っているようなのだ。約100年前(1920年, 第1回調査)と比べれば約10倍に増えたし、調査手法や集計区分の変更を僕が見逃している可能性もある。でも、もしこの計算が正しいなら、この20年は、「書くことを仕事にするひと」が減り、「仕事をしながら書くひと」が増えた時代だったと言えそうだ。

このことは肯定も否定もできる。あまりに広汎で、頻繁な「不安」の伝播は、その共同体の存続にとって好ましくない。扇動や迷妄の温床になるし、対話コストも膨れ上がる。もっとも、貧しさと闘うという意味では、識字率は高まったほうがいい。読み書きのリテラシーが深まるに越したことはない。だから、文章芸術のことで悩める(くらいにリテラシーの高い)ひとは、少ないよりも多いほうがいいはずだ――たとえそれが、無数の小さな車輪の再発明に過ぎないとしても。言葉を覚えなければ、「言葉なんて覚えるんじゃなかった」とは書けないのだ。

だとしたら、日本語で「書くこと」の、総体としての価値はどう変わったのか。よりじぶん勝手な問いかけをするなら、どう変わった「ように見える」とうれしいのか? この問いが、今年の僕の主要な関心の要約だろう。

ひとがいつか死ぬことに比べたら、気休めにしかならないけれど、「書くこと」の価値が「どれだけ残せそうか」を測るための、入手しやすいものさしはある。企業成長率が望ましいふれ幅で増減していて――永遠に増え続けるのは無理だもの――、ROIC(投下資本利益率)が期待に見合うだけあるなら、その組織は、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、 悲しみのときも、世の中に必要とされているうちは、ずっと生き続けていられる。少なくとも理論上は。こういう考え方は、甘い恋へのあこがれにどうも似ているけれど、わずかな時間だけでも、正気を保つ効果はある。

では、言語芸術にとって、新しく生み出される価値とは何か。その言葉を生み出す組織は、事業は、市場は、文化は、何のために生まれて、何をして喜ぶのか。分からないままこの文章は終わる。言語表現と言語芸術という2つの異なる語を、僕はあまりにも安易に混用している。その混用はある種のひとを不安がらせ、苛立たせる。「ある種のひと」には、他でもなく僕も含まれる。「あとに続かないこと」に「不安」を抱える「大量の人口」を構成するひとりだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?