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せいいっぱいの悪口

最近、エアロバイクを買った。夫にねだって買ってもらった。「ほんとにちゃんと乗る?続かないんじゃないの?」と何度も言われたけどそれにはちゃんとこたえず、寝転んで手足をバタバタさせて「買って買って買ってよ〜」と喚いてなんとか買ってもらった。ツイッターのお友だちが励んでいるのを見ていいなあと思っていたのだ。 ダイエット、というより気持ちのよい運動がしたかった。筋トレなどは続く気がしないがなんの確信か乗り物ならいける、と思った。「しょうがないなー、まあ俺も届いたら届いたで使おー」と夫は言っていた。その気になってくれたようでよかった。

届いたそれは、ほんとうにただの自転車だった。ただ、漕いでも進まないだけ。

ダイヤルをまわして負荷を変えられる。自転車に乗っても汗などめったにかかないが、なぜかこのエアロバイク、ほんとにめちゃくちゃ汗をかく。普段とくだん、汗かきというわけでもないのに漕いで10分もすれば上半身から汗が滲み、30分経つ頃には顎から胸から汗が太ももに滴り落ちる。
そのへんでいつもかなりフラフラになるので漕ぐのをやめるのだけど、調子のいいときはあと10分、漕ぎ続ける。ハイになってくるのか、だんだん自分がキョーボーなこころに傾いてゆくのがわかる。気に入らないことばかり、思い出す。みんな自分をさめた目で見ているように思う。どうせ呑気な暮らしと思われているんだろう、とか。非常勤でラクな生活しながらやたらていねいに暮らしたがってムーミンばかりでいいねを得て安易な承認欲求満たそうとしてあさはかだわ、というような。しかしそんなふうに自分を見せているんだから、だれもその裏側までは知らないのだから、そりゃそう思われて当然なのだ。

クソ、と思う。誰がとか何がとか具体的な対象はなく、ただ全体的にクソと思いながらシャカシャカとペダルを漕ぐ。

そしていつも行きつくのは、自分には才能がない、という決定的で絶望的な事実の確認なのだ。毎度きまってポップなゴシック体で眼前にばーんと提示される「才 能 が な い っ !」という文字列。ネオンサインみたいにカラフルにひかっている。それがどんどん膨らみながら迫ってきて、私は押し潰される。圧死。

佐藤浩市みたいに立派に顔の皮の分厚く、見るからに権威、みたいな男性に両肩をがっしと掴まれて「君には才能がある」と年に100回は言われたい。そしたらなんとかがんばれる気がする。いやほんとうは毎日100回、呪文のように言われたい。しかしそれだと佐藤浩市も大変だろうからまあじゃあ一ヶ月に一度でもいい。山口まで来てもらうのも結構手間だけど飛行機代は出そう。いや、才能を見込んでくれているのだからむしろすすんで来てくれるのではないか。佐藤浩市。

「君には才能がある」

しかしその瞳は空虚。

しっかり私の両肩をつかんでいたその重く、肉厚な右手左手の、力がどんどん抜けていく。ああ目の前の佐藤浩市がかすんでゆく…

はじめから、そんな都合のよい精神的支柱なんて存在しないのだ。
私だけの佐藤浩市なんていないから(多分日々お芝居で忙しい)、誰も励ましてくれないから、自分で励ますしかない。でも自分に才能なんてある気はしないから励ましようがない。

佐藤浩市と(もう佐藤浩市じゃなくてもいいや)ひょんなことから20歳そこそこの私は文壇バーみたいなところ(佐藤浩市来るかなあ)で知り合って「キミ、面白いね」なんて言われていたく気に入られ、それから10年間、応援し続けてくれている。ああ私のパトロン。
そんな10年を送っていたら、今どうなっていたでしょうか!そうじゃない10年間(今の私)と比べてみましょうー!というのをやってみたい。

リビングのテレビが急に明るくなり、そんなショーが流れはじめる。誰とは知らず、怒りつつエアロバイクを漕ぎながらそれを見ている自分。もう50分経った。さすがにフラフラだ。

そもそも権威にすがりたがるなんて発想が根本的にダメ。そこに据えるパトロンとして佐藤浩市を権威の象徴みたいに扱うのもだめ。権威といえば男性、しかも佐藤浩市みたいな雰囲気、という私の大時代な認識も誤り。なぞのショーを流し続けるテレビを消して、シャワーを浴びる。

最近、やっと山口も梅雨入り宣言があったけれど思ったより雨は降らない。ジメジメとした毎日ではあるけど、梅雨の晴れ間なんてなかなか気持ちのよいもので、だから自転車で通勤している。行きは授業のことやこなすべきタスクのことを考えるからあまり気持ちは乗らないが、ふと見遣る紫陽花の色のグラデーションにその瞬間、こころは軽くなる。

あぢさゐはすべて残像ではないか (山口優夢)

という名句を思う。紫陽花は、瞬間そのものだ。花はうつくしく咲いて枯れてしまうことの、その認識をここまで端的に、目の前で見せてくれる。この梅雨に咲く、青やむらさきのグラデーションにいっしゅんで私は目を奪われ、けれどそれはまた一瞬で過ぎ去ってしまう。過ぎ去ってしまうことしかできなくて、そのことがかなしい。
旧仮名なのもいい。「ゐ」なんて紫陽花そのもので、一文字ずつが(とくに「ぢ」と「さ」は反転して」)花房のようだ。枯れてしまうとすべてセピア色になる紫陽花の、今だけのあざやかな紫色を見せられて、泣きたくなるのは私も紫陽花だからか。ほんとうは、紫陽花だけでなく生きるものすべて、残像である。過ぎてゆくことを止められない。やめることもできない。でも、こんなにも今、コマ送りのように今がある。

自転車は、風を切るからだろうか。汗を全然かかないのは。風を切るから気持ちいい。誰のことも憎くない。みんな好き。みんなたくさん生きてほしい。佐藤浩市も私もあなたも。でも死んじゃうね。かなしいね。だから大切。だからいとしい。うまれて万歳しんで万歳。これもまた自転車ハイなのか。

私はあなたではなく、私だ。その事実に何度でも絶望して、私はなんで書いていたいんだろう。なんで、認められないといけないと思ってしまってそこから動けないのだろう。死ぬのが怖いのか。なんでもない人生に満たされて、死んでゆくのがこわいのか。

もはやあまりに有名になってしまった岡野大嗣の、

もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい

が想起されるとき、しかしほとぼりって今の私にはすこし違うかもしれないと思う。
何か目の前に逃げたいことがあって、それがおさまったら生き返る。でも生きていれば面倒で逃げたいことばかりなのだから生き返らずにはなれたところから浮遊して眺めていたい。いや、そうじゃないんだ。私は。枯れかけの紫陽花をみつめて、ずっと見つめて、今を私が生きていて、泣きたくても泣けない。佐藤浩市もいない。誰も知らない。誰も私ではない。エアロバイクを漕ぐとおかしくなるのだ。汗をかきながら、やっぱりまた怒っている。自分に、怒っている。


#エッセイ #日記 #コラム #俳句 #短歌

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