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私たち劇場|怪談未満|三好愛

★本連載の書籍化が決定しました(2022年6月24日付記)

 つきあっていた人と二人暮らしをすることになったとき、つきあってはいましたが、お互いの個人的な部分に入り込みすぎてしまうことがなにより恐怖だったため、郊外にやたら広い部屋を借りました。やたら広い部屋というのは、都心ですとやはり家賃が高く、二人で折半してもなかなか払い切れるものでもなかったので、あえなく田園都市線の、はしっこのほうの最寄り駅から徒歩二十五分、ただひたすらまっすぐな太い道路沿いを歩いて到着するマンションの一室を借りることになりました。駅から遠いと言えど、まあいいか、と思えた理由はふたつあって、すぐ隣にコンビニがあったこと、目の前にバス停があったこと、です。二十五分歩いて駅へ向かうことが億劫になってしまったときは、目の前のバス停からバスに乗れば、疲れることなく駅に到着することができました。

 借りた部屋のリビングには道路に面した出窓があって、出窓からはバス停の様子を真正面に眺めることができます。しばらく暮らしていくうちに、私たちはなんとはなしに、バス停の様子をその窓から確認するようになりました。バスってけっこう時刻表どおりに来なくって、予定の時刻ぴったりに家を出てもなかなかバスがやってこなくてあせったり、遅めに出て、もうバス行っちゃっただろうから諦めて歩こうかな、なんて駅方向に歩を進めた矢先にやってきたりするんです。だから、家の中からバス停を見ることでバスが行っちゃったのか行っちゃってないのか、できるだけ把握するようになりました。バス停には、人が並んでいるときと並んでいないときがあって、だんだんわかってきたことは、バス停に人がたくさん並んでいるときは、これからすぐバスが来るときで、人が並んでいないときは、バスが行っちゃったばかりのときである、ということでした。私たちは、なんて便利な窓なんだ、と喜び、バスに乗る必要がないときでも、出窓からよくバス停を眺めるようになりました。

 真正面から見る窓の画角に切り取られたバス停は、さながら劇場の舞台のようで、バスに乗るために、近所からいろんな人たちが集まってきて、バス停の看板のもとに一列に並ぶ様子は、なかなかおもしろかったんです。時間帯によって、サラリーマンとか、おばさんとか、学生とか、並ぶ人が変わったりとか、バスが来て、停まって、通り過ぎると今までいた人たちがバス停からいなくなっている変化とか、見てると意外に飽きなくて、私たちは、平日の朝に歯磨きをしながらとか、休日の午後手持ち無沙汰になったときとか、出窓からバス停の様子をいつもぼんやり眺めていました。

 そんな平穏な日々が続いたある日の夜に、仕事から帰ってきた同居人が、少し青ざめた顔で、耐えきれないように、話しはじめました。

「あのさ、今日の朝、バスに乗ろうと思って、バス停に並んでたんだ。そしたら、バス停にいたおばちゃんが、隣に並んでたおばちゃんに、おれたちの家の窓を指して、あそこの家、いつもカーテンあいてるわよねぇって言ってたんだ」

 え! と私は驚きました。私たちの家、バス停から認識されてるんだ。それで、その話しかけられたおばちゃんは?

「そしたら」と彼は言いました。「話しかけられたほうのおばちゃんも、ねえ、いつも、家の中、丸見えよねぇ、大丈夫なのかしらって気の毒そうに言ってたんだ。おれ、いたたまれなくなって、もうバスやめて、駅まで歩いて行ったよ」

 私たちはその日から、カーテンをぴっちりと閉め、バス停の様子はすっかり見ないようになりました。

 私たちは、見ていたと同時に見られていました。気づいてみれば簡単なことなのに、私は、どうしてこちらだけが「見ている」つもりになっていたんだろう、と思いました。私たちが「見る側だ」という思い込みは、バス停を窓から眺めるようになってから自然と身についたものでした。けれど、バス停に並んでいる人たちからすれば、私たちが「見られる側」だったんです。私たちがバス停を観察しているのと同じように、彼らは私たちが歯磨きをする姿や、ただぼんやりと出窓にもたれかかっているのを、窓の画角で切り取って、バスが来るまでのその時間、真正面から見ていたのでした。私たちは観客で、バス停に並ぶ人たちの、舞台を見ているつもりでしたが、同時に彼らだって観客で、私たちの窓は、彼らの劇場になっていたんです。
 
 カーテンはぴっちり閉められ、それから一切開けなかったので、私たち双方の関係は終了し、二度とどちらの舞台も上演されることはありませんでした。今は見ることのできぬバス停から「あのおうち、いつもカーテン閉めっぱなしよね」などと噂されているに違いありませんでした。

 私は勝手に「見る側」として自分を位置づけ、活動していたことを深く恥じ、私だって「見られる側」なのだ、という自覚をしおしおと持ちながら、それからは、もう、姑息な真似などはせずに、時刻表どおりの時間にバス停に並ぶようになりました。
 
 だだ、並んでいるときに、ふと目線をあげると私たちの部屋のカーテンが閉まった窓があって、私はついさっきその部屋から出てきたばかりですが、今まさに、もう一人の私が部屋の中に、カーテンの向こうに、まだ存在するのではないか、という気が、どうしようもなく、してしまうようになったんです。「見る側」と「見られる側」の対等具合に気づいてしまった今となっては、私自身が「見る側」と「見られる側」に分裂したような、自分が二人いるような、不思議な気持ちに陥りながら、それからの日々を過ごすようになりました。

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著者:三好愛(みよし・あい)
イラストレーター。東京都在住。装画と挿絵を数多く手がける。主な仕事に伊藤亜紗『どもる体』、藤野可織『私は幽霊を見ない』、川上弘美『某』、深爪『立て板に泥水』、高橋源一郎『誰にも相談できません』、宮部みゆき『魂手形 三島屋変調百物語七之続』。クリープハイプのツアーグッズ・ビジュアルデザインなども手がける。初の著書『ざらざらをさわる』(晶文社)は「キノベス!2021」15位にランクイン。

短期連載「怪談未満」について
妖怪や幽霊が登場しなくとも、私たちの日常には、「あれっていったい何だったんだろう」と思えるような体験、ざらざらした感触だけが残るような出来事が起こります。私たちはそのたびに「なんだか納得いかないなあ」なんてことを思いつつも、いつも通りの生活に戻ります。でも、起きてしまったことにいちいち立ち止まり、目を凝らしてみたときに何が見えるのか。日常と非日常の境界にあえてとどまってみたときに何が起きるのか……。イラストレーターの三好愛さんがつむぐ言葉をてがかりに、日常にひそむ不可思議を再発見する新感覚モヤモヤ・エッセイ。全6回の短期連載です。


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