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よわくて、つよい

これまでの人生ではいつも、姿のみえない、真っ黒ででっかい「なにか」と戦い続けてきた。

その度に、なんで?なんで?と、アホみたいに同じことを幾度となく問い続け、ようやくそのなにかが「自分自身」だったことに気付いた。

「どうせプロにはなれない」

「チームを乱してしまっていないか、一人で暴走してないか」

体裁を保つためにも必死こいて余裕ぶってきたが、実はそのうちでは常に「わからない自分自身」への不安でいっぱいだった。

その不安を理解するための自分史振り返り。

自己理解として抽象度がまだ低いので、また迷子にならないよう「いま」の自分の在り方をまとめてみる。

固有スキル:自分軸

人間観察をしながら気付いたことがある。

うまく活かせているかどうかはさておき、誰しもが得意スキルを所持していること。

自分の場合はなんだろうという視点でまとめたのが、以下の内容。

固有スキル:「自分軸」
派生スキル:
「圧倒的努力」
「とりあえずやってみようの決断力」
「わくわくのままに学びまくる探究力」 
「どこでも自分世界を展開できる集中力」     

ここ数年でようやく、主観と客観の境界線を認識し始めたほどに、よくもわるくも自分人間街道を突っ走ってきた。

いまよりもっと若く、自分という存在がもっと不確かであったときは、承認欲求に飲まれ、正解探しゲームを始めてしまった。

ただ同時に、完璧であろうとするあまりにあれもこれもと手を出し、ど根性で習得していく努力スタイルを手に入れた。

人並み以上の意地とプライドは、次々と副産物を生み出す。

環境が変われば自分も変わるはず、少しでもよりよい自分になれるならと、なんでもまずはやってみる決断実行力。

やってみようで環境を変えたことが、勉強にせよサッカーにせよ、以前は努力するものとしてこなしてきたものがワクワクに変わり、学びに貪欲な探究力となった。

そして、最初はただの現状整理として、のちに、失敗だと思えるような過去から意味をみつけようとはじめた内省的思考。

どこで誰といようとも、瞬時に自分ワールドを展開し、周りを遮断してしまうのはよくない癖だが、この集中力に支えられてきた思考力でもある。

決断による実行と、振り返りとしての内省的思考は、自己理解における基本であり、自分の「いま」は確実にこの土台の上にこそ成り立っている。

自身へ向かう矢印のおかげで成長を遂げることができた一方で、ピッチでは致命的となる弱点も存在する。

いわゆる空気を読む力が欠落しており、周りとの調和が大の苦手なのだ。

20年以上もの年月をかけてプレーしてきたにも関わらず、自身の特性とサッカーという競技の相性の悪さに気付いたのが昨年のこと。

まあ大変な道のりではあったものの、よく理解もできていない自分の可能性というものに縋り続けたおかげで、サッカーが大事なことを教えてくれた。

ギフト:他力本願人生

神さまからの祝福なのか、ご先祖さまの加護なのか。

それはわからないが、固有スキルに加えて生まれ持ったギフトがある。

「他力本願人生」

それを謳えるほどに、どこへ行っても人に恵まれる。

いま振り返れば昔からずっとそうだったと思えるが、自覚できたのはアメリカに渡ってから。

言葉が通じない異文化のなかで「なにもない自分」を自覚し、素直に周りに助けを求め、そしてその声に応じてくれる周り。

大好きな人たちのことをもっと知りたいと言葉を学び、言葉を覚えるたびに人間らしく生きる心が育った。

このときのマインドセットがなければ、はみ出し者であることに違和感を感じ、自分に向けて問いを立て続けることはなかっただろう。

外に矢印を向けて情報を収集する自分と、また自分に矢印を向けて内省的に活動する自分。

同時進行ができない不器用さゆえに、その二軸を行ったり来たりしながら、ゆっくりと自分の層を重ねていった。

その過程のなかで好きな人ができ、嫌われたくない一心で嫌な自分と正面から向き合い、致命的欠陥にも気付けた。

30を過ぎて真顔で話すような内容でもないかもしれない。

でもこのタイミングで、この人を好きになれたことも含めて、そのすべてがギフトだったと思っている。

よわいけどつよい

さまざまなことに思考を巡らせてきた中で、世の中でいわれる才能というものに疑問を感じるようになった。

才能とは、その人だけが生まれ持つ特別ななにかのように思われがち。

だけど、実際には二つのパターンがあると思っていて、一つは自身の得意とやりたいことが元からマッチしているケース。

そしてもう一つが、やりたいことを貫く中で新たにスキルを取得したり、派生させたりと、自ら道を切り拓いていくもの。

だから、自分の好きややりたいというものに向かって情熱を燃やし続けることが、才能というものを開花させる一つなのだろう。

どれだけ能力があっても本人にその気がなければそれまでの話。

例えば、国の代表まで登り詰めたときのように、ピッチでも周りが求めることを演じることでおそらく試合にはもう少し絡めるだろう。

ただ問題なのは、例えそのための能力があったとしても、もうその道でやりたいとは思えないのだ。

だから、他の誰でもない自分自身が納得する形で、チームとしての結果にまで繋がる方法、個としての在り方をみつけなければならない。

中途半端であればなににもならないリスクも理解はしているが、それでも挑戦し続ける。

なぜなら、サッカーをプレーしているのは誰のためでもない、自分の存在証明だからだ。

いままでの道のりのなかで、「強いと思っていたけど、もしかしたら弱い人間なのかもしれない」そう何度も自身を疑った。

自分が信じきれなくなりそうなとき、決まって読み返す言葉がある。

“Trust your incredible football brain. “

日本の父同様、素晴らしい指導者であり、よきライバルである、母校の監督から贈られた言葉。

いま改めて客観的に道のりを振り返ってみて、これだけの致命的欠陥がありながら、よくここまで来れたなと自分ごとながらに感心する。

それでもきっと、自分を信じることが難しい時間がこの先また訪れるだろう。

Brain(脳)とは記憶の集合体。

つまりこれまでの経験すべてであり、いままで支えてきてくれた人すべてが関わってくる。

いまはまだ自分の存在だけを絶対的自信にできるほどではないけど、そこに大好きな人たち全員が加わってくるのであれば話は別。

だから、いまの自分は弱いのだけど、十分に強い。

よわくてつよいの未来形

この解釈が思考の柔軟性を与えてくれたからか、また世界の見え方が変わっている。

いままでは訳もわからないまま状態が変化してしまっていたが、それも無意識下で感情を揺さぶられていた結果であることを実感した。

共感力も少し向上したのだろう。

周りの感情の波に少し厚みを感じるようになり、よくも悪くもそれに引っ張りれる感覚を覚えた。

だからこそ、ここからはより自分を律するということが大切になってくる。

これからも身体と脳とに向き合っていくなかで、共感力のような社会的認知機能は改善していくと思う。

空気が読めるようになることで受ける恩恵ももちろんあるが、それ以上に自分を表現することを恐れるようになってしまっては意味がない。

優先順位をつけ、どれかに専念すればいいのだろうけど、強欲な性格ゆえに、一度可能性がみえたものはすべて追いたくなる。

二兎を追う者は一兎をも得ずどころか、三兎、四兎くらいの話になるだろうが、一人で速く歩きつつ、みんなと遠くの景色も見に行きたいのが素直なところ。

簡単なことではないが、情報社会をうまく利用しながら人とのご縁を大切にしていくことで、きっとなにかしらの形にはなると感じている。

周りをみながら、自分を律し、その場での最適解となるカードを切り続ける。

それが自身の求める最適化し続ける圧倒的な個の姿であり、いまの弱くても強い自分の未来形。

哲学者モードも楽しかったけど、さすがにそろそろサッカー選手を始めようか。

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