サッカーというゲームの攻略法
ぼくはサッカーが好きなのか。
少なくとも好きな人に感じたような、理由もなくただ好きのような感情とは違う。
たぶん好きってたくさんあるし、とても複雑だから自分ではわからない。
だから、一旦他の人に置き換えて考えてみることにした。
ぼくの見た目は母、中身は父そっくり。
父は「自分のこどもだろうと、サッカーに足して舐めた態度をとるやつは許さん」と、それくらいにサッカーが大好きな人。
基礎技術習得、体力づくり、戦術理解など、サッカーのイロハを叩きこまれ、日々の練習の意図を考える思考を学べと指導者育成ビデオを渡されたり。
いま振り返ると、お父さんアカデミーでなかなかに厳しく育ててもらった。
ときには嫌だと思うこともあったけど、それでもサッカーが上手くて頭のいい父のようになりたいとも思っていた。
そんな父も、いまは現役を退いてしまっている。
周りとの熱量の差に耐えきれかったのだという。
そんな父に深く共感する部分を感じながら、同時にここで父のことを越えなければならないとも感じる。
時代の移り変わりが激しくなり、人の考えかたや価値観にも様々な形がみられるようになった。
言い方を変えると、選手としてのサッカーとの関わり方にも選択肢がかなり増え、それぞれの「サッカーが好き」という形も多種多様化してきているのだ。
そこの前提がなければ、どこへ行っても、いつまで経っても、組織の一員として共闘の形をとるまでのマインドをつくることは難しい。
なぜ、ぼくはどこへ行ってもサッカー小僧と呼ばれるのか。
多分それは、父が教えてくれた、個人としてサッカーがうまくなるための術を駆使して、自分がサッカーを楽しむために人生の膨大な時間を捧げているから。
ではぼくになにが足りていなかったのか?
人として、人とともにサッカーをプレーするという視点。
父を通して自分の状態を振り返るようなことができてしまうあたり、自分でも父とサッカーのことが本当に好きなんだなと思う。
好きだからこそ、ここまで現役で続けているのだと、おそらく周りからすれば一目瞭然だったことも、いまようやく理解できた。
サッカーが好きで選手をやりたいのであれば、「人として、人とともにサッカーをプレーするという点はどうにかしなければならない。
「人として」の部分は、人それぞれになると思うけど、自分の場合はいつでも自分のパフォーマンスが発揮できるという自信を埋めておくこと。
「人と共に」とは、人それぞれの価値観を想像し、尊重しながら、チームが勝つための道を見つけること。
ぼくの思考の師匠がいつも言っている「自尊心と他尊心の共存」である。
自分のことを大事にする心と、周りのことを大事にする心は常にセットでなければ成り立たない。
個人としてはコンディションの定義化と可視化によるコントロールと、脳化学の視点からパフォーマンス向上まで繋げることの二つ。
そしてチームとしては、まずは選手一人一人のことを知り、サッカーで共通する価値観を見極め、そこを徹底的にすり合わせること。
どちらも詳しくはまた別の記事で深掘るとして、一旦これがぼくの今までを形にしていくプロジェクトのスタート。
ブレてはいけないとこだけを常に心の中に定めつつ、とりあえずやってみて、そこから得た情報をもとに振り返り、またやってみる。
それらを俯瞰して全体をマネジメントするために、自分の頭の中を広げるためにも学び続け、またそれをプロジェクトに反映し、その結果がピッチでの表現という形になっていく。
まだまだ解像度は荒いけど、これがぼくなりの「サッカーというゲームの攻略法」である。
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