【和風ファンタジー】海神の社【誰かを守れる人間になれ】第六話
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鷹見と猛狼が鵺《ぬえ》を狩り取り、居酒屋で数刻を過ごした夜は明けた。施療院にて一晩中、海塩を使って罪穢《ツミケガレ》を祓《はら》っていた希咲の左腕《ひだりうで》は、もうすっかりきれいになっていた。もう痛みもなく、わずかに熱さを感じる程度でかさぶたを落とせるようにもなった。
身体《からだ》の左側から出てくる虫のような物もほとんどいなくなってきた。この虫状の物は、穢《ケガレ》に侵された『気』が表に出てきたものだ。出てこなくなれば『気』は滞《とどこお》り、体中に穢が溜《た》まって死ぬ。
希咲が穢を排出出来ていたから、今まで若さを保ちつつ生きてこられたのだった。
ただし、かさぶた落としにはまだ時間は掛かりそうだとは思えた。一瞬のうちに癒やしの力を解き放てるほどには、まだ回復してはいない。
「そんなにご無理をなさってはいけませんよ」
海神の社の癒やしの巫女、手古名《てこな》は希咲にそう言った。手古名は今、浅葱《あさぎ》色の着物を着ていて、清楚さがより引き立つ姿をしていた。流れる清水のようなみずみずしさと清らかさだ。
手古名は、夜明けの光と秋の風を室内に入れるために、廊下の窓側の木戸と、部屋と廊下を仕切る障子を開けた。希咲がいる部屋にも、清涼な風が吹き込む。海のそばであり、実りの季節ゆえ、朝焼け広がるこの時間は薄着ではやや肌寒い。
「ありがとう、手古名《てこな》。でも私はやらなければならないんだ。気遣《きづか》いは嬉しいが、今は放っておいてくれ」
「何をおっしゃいますか。昨夜は全く寝ていらっしゃらない上に、ずっと清めの儀式をしておられたなんて。どうか今は休んでください。このまま続けたら間違いなく体に障《さわ》りますからね」
真剣な面持ちの手古名を見て希咲は笑った。控えめで、落ち着いた態度で。
「やれやれ。手古名はまるで心配屋さんのお姉さんみたいだね」
「からかわないでください。本当にお体に悪いですよ」
「分かったよ。少しは休もう」
「少しでは駄目です。昼近くまでお休みくださいね。その時間になれば起こして差し上げます」
「分かった、分かった。では頼んだよ、手古名」
手古名《てこな》は、希咲が横になって目を閉じたのを確認してから、障子を閉めて去って行った。毎朝そうであるように、廊下の窓にある木戸は開け放たれたままらしく、外の風と虫よけの草の香りが、障子戸を通して感じられた。
希咲は、今になって急速に疲れと眠気を感じていた。確かに今は休んだ方がいいのだろうと思う。目を閉じ、早朝の光に照らされながら眠りに落ちていった。
宮津湖《みやつこ》だけに、鵺《ぬえ》狩りの報告をさせて、鷹見は希咲に二度目の目通りを願わなかった。一つには、宮津湖をそれなりに信用していたからだ。たとえ鷹見に隔意《かくい》ありと言えど、意図的に希咲へ偽りの知らせをするとは思えない。
「何を宮津湖に遠慮してるんだ。奴には内緒《ないしょ》でこっそり会いに行けばいいだろう」
猛狼《たけろう》にはそう言われた。二人して海神《わだつみ》の社《やしろ》まで来たが、鷹見は奥の施療院には近づけないでいた。
明け方の時間はとうに過ぎ、朝も遅くの頃合いとなった。陽《ひ》の光は、真昼と変わらないほどに辺《あた》りを明るく照らし出している。
「いや、やはりやめておこう」
鎮守の森、またの名を『海神の癒しの森』の奥を見通すように見つめながら、鷹見はそう言った。
「ここまで来て、会わずに引き返すのか。宮津湖になら遠慮はいらん。きっと南城《みなしろ》様も会いたがっておられる」
「そうは思えない。あまりお姿を見られたくはないご様子だった」
「障子越しに話せばいいではないか。少しは頭を使え」
「やはりやめておく。鵺《ぬえ》の一匹くらいで、自慢げに話すのもな」
「何を言ってる。単に事実を話すだけだろう。東の助けもあって、荘園の外にいた鵺《ぬえ》を射殺せました、とな」
鷹見は軽くため息をついた。やけに熱心な猛狼の方に体の向きを変える。
「本当は、俺自身が今のあの方を見るのが辛いんだ」
「気持ちは分かる。だから見なくていいと言ってるだろう。同じことを二度も言わせるなよ」
「東《あずま》、本当に希咲様は、障子越しでも俺に会いたいとお考えなんだろうか?」
「お前な」
東《あずま》猛狼《たけろう》はいい加減に呆《あき》れてきたようである。
この時、鷹見は境内《けいだい》の入り口側、鳥居の方を向いていた。鎮守の森から、出てくる人がいるのには気がついていない。
猛狼は気がついた。遠目にも優雅な姿が誰のものかは明らかだった。
「いや、ちょっと待て。後ろを見ろ」
鷹見はけげんな顔をした。
「後ろに何が」
「おはよう、を言うにはもう遅い頃合いだな」
昨日聞いたばかりの端正な声の響きだ。鷹見は背後に向き直る。
「き、希咲様……」
夢か幻を見ているのではないかと思った。七年前と変わらない姿の南城希咲がそこに立っていた。
「宮津湖から聞いたよ。二人とも、また手柄を立てたそうだな」
鷹見は猛狼と目線を見交《みか》わした。ではやはり宮津湖はきちんと報告はしてくれたのだ。
「どのようにお聞き及びでしょうか?」
と、猛狼が慎重な口ぶりで尋ねる。
「鵺が一匹、また荘園のすぐ近くに現れたと聞いた。東が援護、鷹見が仕留めたと、宮津湖はそう言っていた」
希咲は静かに答えてくれた。
「はい、その通りでございます」
不自然なほど大声を出した猛狼を見て、希咲は続けて言った。
「宮津湖が鷹見に対して隔意《かくい》を抱くようになったのは知っている。それは私の責任だ。だが、偽りの報告をして陥《おとしい》れるほど宮津湖は卑劣な男ではない。そうした者は、私の配下にはいない」
「オレ、いや私はそういうつもりで言ったわけでは」
「いや、いい。鷹見を助けてくれて礼を言う。まだ一人では、無傷のままで鵺を仕留められるほど回復してはいないだろうからね」
猛狼にそう言ってから、先ほどから黙ったままの鷹見に目を向けて、
「随分《ずいぶん》と苦労を掛けたな。お前には礼を言うより、済まないと言った方がいいのだろう。しかし他に方法はなかった」
「……希咲様、俺のことより、もう大丈夫なのですか?」
「まだ完全ではない。今日一日は海で禊《みそぎ》をして、明日の朝には大丈夫な姿を見せられるだろう」
「本当に、良かったです」
鷹見は昨日、希咲を見舞った時と同じように涙を流す。ただ、今は同じ理由で泣くのではなかった。
「やれやれ、お前は私が思っていたよりも泣き虫だったのだな」
希咲は苦笑した。それでもその態度にはいたわりと思いやりが感じられる。
「あの、オレはここで失礼します」
猛狼は言って、希咲の返事を待たずにその場を足早に去って行った。
希咲はその背を見送りながら、鷹見に言う。
「気を利かせて二人だけにしてくれたようだな」
「あいつは俺に気を使ってくれています。宮部様が選んだ配下であるだけに、あいつもいいやつです」
「そうだな」
希咲は答えた。七年前は、猛狼も鷹見と同じくまだ少年であったのだ。
「あいつも成長したのだな。何もかもが変わった。お前も」
「幸い、希咲様が眠りについておられる間は、この辺り一帯も実に平和でございました。時折は『荒の変り身』が現れましたが、我々御霊狩りと宮部様とで何とかしてきたのです」
「それはよかった」
希咲は優しく微笑んだ。心底、良かったと思っている顔に見えた。
「幸い、海の向こうの大陸と、この大八島の関係も今のところは良好です。ですが、こうして希咲様がお元気になられたからには、もう百人力、いえ百万人の助力を得たも同然です」
「お前がそう言ってくれるのは嬉しいが、私の力が必要になどならない方が、ずっと良いとは思わないか」
「はい、またしても眠りに就《つ》かれることになっては。それは私だけでなく、誰も望まないでしょう」
「それもあるだろう。しかし大事なのは、人々が一番必要としているのは、私自身ではなく、私などいなくてもかまわないような平穏な日々だということだ。それを忘れてはならない」
鷹見はそれを聞いて、目を見開いて主を見た。
「希咲様……」
「それが本当のところだ。そうではないだろうか」
鷹見はしばらくは黙っていた。希咲が言う正しさは分かる。それが分からぬ鷹見ではない。
「確かに、『荒の変り身』も大陸との関係も無ければ平穏無事でいられましょう。でもそれは夢です。実際にはあり得ないことです。ですから我々には、貴方が必要なのです。そうではありませんか」
今度は希咲が黙り込む番だった。鷹見の言に、不快を感じているのでないのは分かる。
「ああ、そうだな。残念ながらそうなのだろう」
風がさわさわと葉を鳴らす。木の葉を色づかせ始めた鎮守の森に、静かに秋の風が吹いていた。
続く
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