流行に左右されない生き方

皆さんのまわりにも、この人は流行に左右されないなあ、という印象を抱かれる人がいると思う。流行に左右されず、ただひたすら自分の好きなものを突き詰める人は確固たる自分というものを持っているような印象を持たれる。俺自身もそうであり、友人などからは流行に乗らない人、流行に左右されない人と思われているフシがあるが、その実俺はめちゃくちゃ流行に左右されている。もはやピエロである。

最近の例だと「鬼滅の刃」である。俺はもちろん鬼滅の刃を観ていない。アニメも観ていないし、漫画も読んでいない。こうなってくると、空前絶後の社会現象漫画を読んでないので流行に乗ってないような気がするが、それは違う。これは意図的に読んでいないのである。いや、読めないのである。それは滑稽な自意識過剰のせいだ。なんかもう、自分が流行に飛びついてる感がすごく嫌なのだ。仮に俺が鬼滅の刃にめちゃくちゃ興味があったとしても、おそらく俺は本屋のレジに漫画の一巻を持っていくことができないであろう。一巻というのもポイントで、いつも行く本屋のレジの姉ちゃんに、ああお兄さんもビッグウェーブに乗りましたねえ、などと肚の中で思われてると思うと、俺は買えない、死ぬる。
もし俺が鬼滅の刃をブーム前に自分で見つけたのなら話は変わってくる。涼しい顔で十九巻あたりをすたすたとレジに持っていくだろう。その場合、俺が“すでに見つけた”鬼滅の刃というマイブームに、世間ののろま共が後からやってきただけだからだ。ただ鬼滅の刃の場合は俺がのろまということになる。だから今更一巻をイケないのだ。
鬼滅の刃なんかはまだいい方で、正直そこまで漫画を読みたいとも、アニメを観たいとも思わないから実害はない。だがこれが興味のあるものだとどうなるか、これは悶絶するしかない。
コロナの影響でノーベル賞作家カミュの小説「ペスト」が流行った(ペストに対して流行ったなどと言うとややこしいが)のは記憶に新しい、というか現在進行形だ。スッキリかなんかの情報番組で、コロナ渦の今、カミュのペストという小説が再注目されているんですよ! などと放送されていたのを見た時、俺は愕然とした。ほとんど膝から崩折れて悶死する勢いだった。………なぜ流行る!? もっとこう、あの、なんか、えーっと、くそ! いい例えが思い浮かばねえけど、なんかこう、あるだろ! なんか、あの、もっと新しめのパンデミック小説! もう! すごく嫌! と一人で悶え苦しんだ。俺が何年間カミュのペストを大事に温めてきたか、世間の人間は知らない! 流行ってるからってアホみたいな顔して買ってるやつらは知らない! 沢木耕太郎の紀行小説「深夜特急」の中で、沢木耕太郎自身が大学時代にペストを愛読していたという文を読んでから、俺がずっと大切に温めていたペストが! あろうことか流行りおって! ことによるとこれは片思いのNTRですよ! 同じカミュでも異邦人は読んだし、シーシュポスの神話は積読してあるわけで、そのことを考えるとさらに腹が立つ。シーシュポスの神話は積読してるのに、なぜペストは買わなかったのか? なぜ積読しなかったのか? 昔は本屋の海外文学コーナーの異邦人の隣あたりに一冊あるかどうかでしたよ、ペストは! それが今はどうです? ○○万部増刷とかポップが貼られ、ペストコーナーがあるではないか! ………もうレジに持ってけねえよこれ、もう手にも取れねえよ俺。最初に意識してペストを手に取ったのは、たしか四、五年前の本屋でのことだ。俺はペストを手にとってページを開いて、でも棚に戻したのだ。でもさ、あるよね、そういうことって! と俺は思う。ペストのぶ厚さってギリ長編小説くらいだよね、二百ページそこそこの中編小説が読みたい時期ってあるじゃん、と。その時の俺はそういう感じだったのである。腰を据えて長編読むより、ポンポン中編とか誰かの短編集とかを読みたい気分だったのである。だから買わなかったのだが、今となっては四、五年前の本屋の俺をこんこんと説教したい。どうせ積読してるやつなんて結構あるんだから、ペストも積読の仲間入りさせてもよかったのではないかと。ただ、こうも考える。タイムマシンであの頃の俺のもとに行って、ペストを積読前提で買うように説き伏せたら、昔の俺は従うだろうか? いや、絶対従わないだろう。きっと昔の俺はこう言う。いやいや、積読覚悟で買ったことってそもそもあります? もうそれ読む気ないですよね? 積読って意識してするものじゃなく、読もうとして買ったけど読まなかった結果ですよね? だからこそ三年後くらいに掘り起こして読んだりもあるわけで、積読前提で買う本なんて生涯読まないと思うんですよねえ! だってそうでしょう? 読む前提で買ってる本ならいつか読む可能性があるけれど、積読前提で買うなんてのは、言い換えれば読まない前提で買ってるわけですよ! 読みませんよ、そんな本! オブジェになるのが関の山です、ははは! 賭けてもいい! と。俺という人間はそういうやつである。俺はなんて憎たらしい人間なのだろう、本ッ当にこいつ嫌い。
話を戻して、俺は今になってコロナとかじゃなしに、カミュのペストがなんだかすごく読んでみたくなって、悶絶している。本や漫画の貸し借りなんかをよくする従姉妹がいて、彼女は親戚からは本の虫とまで言われているので、俺はすぐに彼女を頼った。カミュのペスト持ってないか? と。そしたら、引っ越しの時に処分してしまった、と言われた。またしても最悪だ。従姉妹の引っ越しは二年くらい前のことで、俺も部屋探しに同行したではないか! 契約の説明とかで飽きちゃった俺に不動産屋のオバチャンがたくさんお菓子をくれたではないか! こんなことなら引っ越しの手伝いまでするんだった。しかし、やはりタイムマシンがあっても、当時の俺は憎たらしく理屈を並べたて、現在の俺をやり込めようとするに違いない。四、五年前の本屋でもやり込められて、二年前でもやり込められたら、しまいにゃ手が出る。そうなると現在の俺と過去の俺が触れることにより、なんか知らんけど対消滅的なことが起こって俺という存在が消えるおそれがある。………いや、何の話をしてるんだろう。そもそもタイムマシンなんてないのに。というか、よくよく考えたら、タイムマシンあってもカミュのペストのためには使わないわ。

カミュのペストが流行ったことに対するどこにもぶつけようのない怒りにより、本来書こうとしていた趣旨を忘れるところだった。とにかく俺はこういう人間だというわけである。フルーツグラノーラを俺は流行る前から美味い美味いと食っていて、それが後々流行った。その場合は大丈夫で、食い続けられる。MA‐1のフライトジャケットを俺は流行る前から防寒性に目をつけて米軍払い下げのを着ていたが、それが後々流行った。あの頃は学生で、クラスの女共がこぞって着始め、同じようにMA−1を着ている俺を見て、いいね! ナウいね! みたいなことを言ってきたのには腹が立ったが、それも大丈夫だった。着続けられた。“俺が見つけた”フルグラに、“俺が見つけた”MA−1だからだ。あれが逆だったら俺はフルグラも食わないし、MA−1も着ないだろう。というか食えないし、着れないだろう。俺は音楽はB'zが好きだが、もし俺が90年代に青春時代を迎えていたら、B'zを聴けないだろう。俺は太宰治が好きだが、もし太宰が人間失格や斜陽を新刊で出してベストセラーになっている時代に生まれていたら、俺は太宰を読めないだろう。とても、生きづらい。
もう何度も言ったが、結論として、俺は流行には意識的に乗らないのだ。完全にイタい逆張り野郎である。というか俺に関しては自意識過剰によって流行に乗りたくても乗れないのだ。仮に俺が流行に乗っているようなことがあるとするなら、それはブーム前に俺が自分で見つけたものか、無理矢理付き合わされた的な大義名分と免罪符がある時だけだ。事実、タピオカは強引に付き合わされて飲んだことがある。だがそもそも別に飲みたくなかったし、横にある喫煙所の誘惑がすごすぎて味なんて覚えていない。
とにかく、周囲の人間はそんな俺の上っ面だけを見て、流行に左右されない自分を持ってる人、という評価をくれるが、それは違うのだ。これは逆にめちゃくちゃ流行に左右されてるし、もうある種流行に乗っちゃってるわけだ。流行に乗らないという乗り方をしちゃってるわけだ。今はこれが流行ってるからやってみよう! とあれこれ熱心に流行を取り入れる人とベクトルが違うだけだ。流行に超敏感なのはなんら変わらない(しかも俺は感度三千倍である)。そして、流行に流されてばかりいる人は嘲笑の的になりがちだが、むしろ俺のような自意識過剰の逆張りの方が、熱心に流行を取り入れている人の百倍くらい滑稽なのである。
本当に流行に左右されない人というのは、流行に断固として乗らない人ではない。流行ってる流行ってない関係なしに、どんな時も好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてるマッキーのような人なのである。でも、クスリはダメ。ゼッタイ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?