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終戦記念日によせて🙏「鎮魂の歌」を吹こう


原爆忌、終戦記念日に寄せる

「鎮魂の歌」

二千一年八月六日 竹内史光作曲 

尺八で鎮魂の歌を吹こう。
原爆、終戦記念日、風化をさせてはならない。

人類が核廃絶、恒久平和を克ち取る日迄、尺八の同志よ、皆で鎮魂の歌を作って吹こう。



史光師が書いた楽譜。

門下の中根西光師より頂く。



分かりにくい部分があるので、書き直したもの。


静かにゆっくりと吹きます。

レチーレチーレチーの部分は、力強く、風化させないぞという思いを込めて。




こちらはTim Mortimerさんが二尺管で吹いているのをアレンジしてくれました↓

優しい雰囲気の素敵な曲になっています。  



尺八と戦争


史光師は、第二次世界大戦に徴集され戦地に赴き、日本降伏後ソ連軍に連行されシベリヤ抑留生活を強いられ、奇跡的に日本に帰ってきました。 


 平和に対する思いは誰よりも強いです。  


ある日突然尺八が吹けなくなる。なんて想像つくだろうか。  


それが実際あったのだ。


それは竹内史光という尺八奏者の身の上に起こった。   


この冊子は昭和60年(1985年)に発行されたもので岐阜県関市の竹友会史、50年を記念して作られた冊子です。






竹内史光師は岐阜県関市で生まれ、遠藤光洲師に琴古流尺八を学ぶ。

この冊子によると昭和10年に開軒披露演奏会が行われている。琴古流尺八の演奏会というものは関町ではこれが最初の事であったそうな。    


『昭和11年には日独防共協定が成立し戦争の危機が近づきつゝあったのだが、一般にはまだまだのんびりしたもので「島の娘」や「東京音頭」が大流行し天下泰平であった。』    



昭和12年春、竹友社宗家の内弟子として修行。帰郷後名古屋で稽古場を開く。  


『最初にドッと会員が増えて一時は大忙しであったが、同年(1937年)七月七日芦溝橋事件に端を発した日支事変(日中戦争)は日に日に激化、会員は毎日の如く次々と軍隊に動員され、残った者もその分労働強化となり八月下旬頃には殆んど来られなくなってしまった。それに加えて自分の体調を害し、このまゝでは稽古場の維持が困難な状態となったので、一応郷里の関町に帰り、再び三木田氏方にて教授しながら戦況の推移を見定める事とした。処が戦線は益々拡大、戦争は愈々熾烈を加え、容易に終結時など予測出来る状態ではなかった。』    


三木田方稽古時代
門下の方々に「戦死」の文字。


昭和17年、赤紙による軍事動員。以後6年3ヶ月軍隊生活を送り、昭和23年11月末無事復員することを得た。


復員が昭和23年ということは、約3年以上もシベリアで捕虜となっていたことになる。シベリア抑留だ。


シベリアではマイナス40度にもなる過酷な奴隷的強制労働により約5万5千人が死亡している。史光師が帰還できたのは奇跡に近い。余程の忍耐力、精神力のある人だったのだと思う。    


赤紙を受け取った時の気持ちが記されている。    


『八月七日頃であったと思う。実家の兄が自転車で来た「多分此処だろうと思って来たがアゝよかった」と云ってしばらくして「おいとうとう来たぞ」と云って召集令状を差し出した。私はふるえる手でソッとそれを受け取って何度も読み直した。八月十五日中部四部隊へ入隊せよ、という事であった。一応覚悟はしていたというのに、どうした事であろうか全身にとても支え切れない程の何十瓩(キログラム)と、いや何百瓩という重みがグッとのしかゝった様な感じがした。』    


とても支え切れない程の何百キロという重み...。



帰郷した際の心境も記されている。    


『昭和二十三年十一月十八日懐かしの祖国、舞鶴に上陸、二十二日岐阜駅着岐阜の妹の所で一泊、翌二十三日、美濃町線の電車が関に近づくと善光寺山が見える、六年振りにみる善光寺山の姿に、ヤッと命拾いして故郷に帰ったんだ、という実感が胸に湧き上がって来た。電車を降りると懐かしい皆さんが大勢出迎えて下さった。中には照慶寺の老師の姿も見え心なしか老けられた様に見えたが、長いあご髭を涙の白い玉がスルスルと幾粒も伝い落ちるのを見た時、胸が一杯になった。私はこゝで皆さんに御挨拶をしたかどうか覚えが無いが、大勢死んだ中でたまたま拾って帰った命を、自己栄達の為には使うまいぞ、必ず世の為になる事に使うんだ。そうでなければ彼の地で戦死した大勢の戦友に申訳が無い。と心に誓ったのであった。』    

 


あとがきには、  

『この記事を書いていて、どうしようもなく、戦争に対する憤りが腹の底からこみ上げて来るのを禁じ得なかった。平和を守る為、核戦争を防ぐため、核廃絶の日迄ドーシても頑張らなければと、改めて決意を固めた』

 とあります。




彼の地で始まった戦争は、いまだに終わる気配がない。

世界は過去の戦争で、一体何を学んだのだろう。


日本では相変わらずの、某副総理の問題発言。つい先日、台湾での講演で威勢の良いことを言っていた。

台湾海峡での戦争を回避するため「戦う覚悟」を示すことが抑止力の強化になると訴えた。


なんという無責任な発言。こういう人たちが、第二次世界大戦のアジアの悲劇招いたんだなと、改めて認識。

副総理自身は絶対に前線に行かない。

そんな約束をする前に、日本人として戦争に召集された台湾出身の方々に、今からでもいいから日本人と同じ補償をするべきだ。人気漫画の主人公を例えに「1 回の裏切りもない」などとよく言ったものだ。開いた口が塞がらない。


詳しくは以下の記事をご覧下さい↓



某副総理のような人たちにとっては国民はただのこまなのだ。

そして国民から自動的に入ってくる税金と言う資金で、大好きなゲーム(戦争)をするのだ。

あんな武器、こんな武器、今度はこんなカッコいい新しいヤツが欲しいのだ。


そして祖国を守るのだ!


気の遠くなるような人類の歴史の中で、いったい「国を愛せ」という呼びかけの末に、どれほどの命が犠牲になっただろう。

ミハイル・シーシキン / 奈倉友里訳



こちらにミハイル・シーシキン氏のことや、日本の侵略戦争について宮川如山が書いた漢詩のことなど書いてます↓



軍拡競争はいまだに続いている。


何が平和なのか、よくわからなくなってきた昨今。  


ともかく、

世界中に全ての武器、戦闘機、核兵器を失くさなければいけない。  

これらが一つでもある限り、それは人間を殺傷する為のもので、それを持っているから安心と言うのはただの脅しにすぎず、平和の為とは言えない。  「武器による抑止力」なんて全く効力がないのに、それを声高に言うのはただ単に、どの国もそれを隠れ蓑に金儲けしているだけで、人命だとか平和だとか、一切考えていないのだ。

武器があったら平和になるなんて、こどもが考えてもただの屁理屈だ。




史光師この冊子を出された時70歳。96歳まで長生きされました。  


コチラの写真はおいくつか分かりませんが貫禄たっぷりです。



そして彼のレコードにはこんな事が書かれている。

かえりみれば、伝統芸術の伝承と発展は、人類の平和と繁栄こそが絶対条件であるという信念を持つに至った事で尺八専門家としての役割に生きがいを感じる様になりました。あの軍国主義の時代には、尺八を吹く事すら(箏、三味線等も同様に)隣、近所に気がねをして、はばかられたものでした。この様な時代にあっては、尺八専門家のみならず、芸術の専門家は苦境にあえぎ、転職をよぎなくされました。また、例えば、ここに収録された「鶴之巣籠」等一子相伝といわれた曲は継承者が死に絶えてしまえば、曲も同時に絶滅しかねません。  

この曲についても、広沢静輝師の継承者である竹内が、もし、彼の地で戦死という事になっていたら、今日、皆様方に聴いていただく事は出来なかったでしょう。古典尺八楽の次代への継承を願う私には、断じて戦争を許す事は出来ないのです。  

ましてや核戦争による人類存亡の危機がさけばれ、然も世界各国(日本も含めて)政府による軍拡競争の続く、この危険な状態を黙って見過ごす事が出来ようか。  

その思いから、「反核日本の音楽家たち」にも名を連ね、今年も反核平和を念じて「反核コンサート」にも参加してまいりました。  
芸術というも音楽というも、いきつく所、つまりは、人類愛と真理の探究に他ならず、平和の運動もおなじです。  

私は平和の運動を通じてこそ、個人の人間性も芸術性もたかめられると思います。 尺八専門家によらず、その道の専門家というものは、その使命として、その道の現在のみならず、将来の展望等についても、おもんばかるのが常であり、なお、窮極の目的については社会の発展と人類の幸福に寄与するという事ではないでしょうか。 私は尺八を通じて、命のあらんかぎり、平和の願いを込めながら、この目標をめざして進みたいと思います。


ご自身のレコードの「ごあいさつ」の半分以上に「平和」について書いている史光師。




 私もこの記事を書いて改めて、

尺八を通じて、「命のあらんかぎりドーシても頑張らねば」です💪




そして、

『鎮魂の歌』 史光師の意思を継いで、沢山の人に吹き継がれていくのを祈るばかりです🙏

(この曲、チョット難しいけどね)



★以前Tumblrに掲載したものをnoteに書き直したものです。


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