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暮露と文学📖『徒然草』


徒然草』(つれづれぐさ)とは、1330〜31年頃、吉田兼好が書いたとされる随筆。


おそらく、殆どの日本人はこの『徒然草』という名前を知っているはず。



つれづれなるままに、日ぐらし、すずりに向かひいて、心にうつりゆく よしなごとを、そこはかとなく 書きつくれば、あやしうこそ ものぐるほおしけれ。


このフレーズも、この随筆のタイトルも、エッセイの「知名度」ナンバー1を誇るのではないでしょうか。


但し、兼好を作者とするのが僧・正徹(後述)以来、定説になっているが、正徹は100年ほど後の人物であり、兼好が書いたとする明確な証拠はないのだそうです。そうなんですね…。


徒然(つれづれ)の意味は「やるべき事がなくて、手持ち無沙汰なさま」(日本語大辞典)を意味するそうです。あら、これももっと別な意味かと思っていました…。いやはや、知らない事だらけです。



ま、それはさておき、

そんな超有名な随筆に虚無僧の前身と言われている、暮露が登場するのです。この『徒然草』では「ぼろぼろ」と言われています。




一応、暮露とは職業名。

「あなたは何のお仕事されていますか?」とか「ご職業は?」とかそんな質問に「八百屋です」とか「バスの運転手です」とか「プログラマーです」とかと同じように「暮露です」と答えられます。


そんな職業としての暮露のご紹介はこちらを参照下さい↓



但し、今は無き職業。


無き職業といえば、虚無僧も右に同じく。


知名度はかなり低いと思われます。

かくいう私も、子供の頃時代劇はほぼ見た事が無かったので、若い頃、虚無僧の存在を知っていたかどうかも疑わしい。



虚無僧の知名度と言えば…、

以前、尺八仲間のSさんが、職務質問に会い、若いお巡りさんが「虚無僧」を知らないと怒っていた事がありました。

その日は尺八の集まりがあり、珍しく遠方から尺八奏者のお客さんが来るという事で、Sさんがその為のお菓子を買ってくる為にお店に立ち寄ったその時に、路駐を見廻っていたお巡りさんにつかまってしまったのだ。
車の後部座席にSさんは、二尺六寸(約80センチ)ある尺八を無造作に置いていた。
おおよその人は金襴緞子のような貴重品ぽい袋に尺八を入れているが、Sさんは、タオルをグルグル巻いて、そして紐でさらにグルグル巻きにしていた。

「この棒は何か?」
「尺八だ。虚無僧が吹いてたやつだ。」
「は?ちょっとお荷物拝見します」

となったらしい。
80代のSさんは温厚でとっても優しい人ですが、年齢的にもやはり貫禄がありまして、何やら武器でも持っているような、ちょっと怖い人に見えたのかもしれません。


結局、ウエストポーチの中にアウトドア用の折りたたみの十徳ナイフが入っていたので、銃刀法違反とやらで「署までお願いします」となってしまい、みんなが待っているという焦りに、温厚なSさんも「何だよ、だったらこのナイフくれてやるよ!オレは急いでんだ!お客さんが待ってんだよ!後にしてくれ!」なんて言ったもんだから、ますます怪しまれてしまったようです。

そして嫌々交番まで行かざるを得ず、一時間以上遅刻したSさんから、このような話を聞いた次第です。


一尺八寸管なら「釣り竿?」くらいになりますが、長い尺八を持ち歩くみなさんは、十分に注意しましょうね。




さて、
前置きがずいぶん長くなってしまいましたが、『徒然草』本文いきます。



第百十五段

 

宿河原(しゅくがはら)といふところにて、ぼろぼろ多く集まりて、九品(くほん)の念仏を申しける外(ほか)より入り来(きた)るぼろぼろの、「もしこの御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、ここに候。かくのたまふは、誰(たれ)」と答ふれば、「しら梵字(ぼんじ)と申す者なり。おのれが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されにけりと承りしかば、その人にあい奉りて、恨み申さばやと思ひて尋ね申すなり」といふ。いろをし、「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。ここて対面し奉らば、道場をけがし侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきさしたち、いづかたをもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨に侍るべし」と言ひ定めて、二人河原へ出てあひて、心行くばかりに貫きあひて、共に死ににけり。

ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世にぼろんじ・梵字・漢字など言ひける者、そのはじめなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て、闘諍(とうじょう)をこととす。放逸(ほういつ)・無慙(むざん)の有様なれども、死を軽(かろ)くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしままに書き付け侍るなり。



(現代語訳) 

「宿河原という所にて、ぼろぼろが多く集まって、九品の念仏を上げていたところ、外から入ってきたぼろぼろが、「もしや、この方々の中に、いろをし房と申すぼろはいらっしゃいますか」と尋ねたので、その中から「いろをしは、ここにございます。こうおっしゃるのは、誰ですか」と答えると、「しら梵字と申す者です。私の師であったなにがしという人が、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されたと伺いましたので、その人にお会いして、恨みをお晴らししたいと思って尋ねて参ったのです」という。いろをしは「殊勝にも訪ねていらっしゃいました。そのような事は(たしかに)ございました。ここにて対決すれば、修行の道場を汚すことになります。前の河原へ参って対決しましょう。くれぐれも、お共の方々、どちらも味方なさいませんように。多くの人の邪魔になれば仏事の妨げになります」と話をつけて、二人河原に出て対決して、心行くまで刺し違えて、共に死んでしまった。

ぼろぼろというものは、昔は無かったのだろうか。近年、ぼろんじ・梵字・漢字などと言う者が、そのはじまりであるとかいうようである。世を捨てたようでいて自己への執着が深く、仏道を願うように見えて争い事を仕事としている。

好き放題で恥知らずの様子であるが、死を恐れないで、少しも生に執着しない点がいさぎよく思えて、人の語ったままに書き付けましたのです。



現代語訳はroudokus.comより参考にさせて頂きました↓



以下、解説です!

保坂裕興氏による論文「17世紀における虚無僧の生成」を参照しております。



『徒然草』115段は二段(落)構成であり、前半は語り開いた話しの描写、後半が所見である。

この話しが伝える事件は「宿河原」と呼ばれる場所で起こり、そこにはぼろぼろたちの「道場」が構えられ、実際に河原が広がっていた。そこのいたぼろぼろ達は「九品の念仏 (1) 」「仏事」を行っており、そこに訪れた「しら梵字」の話からも、本来は集団を成していた事が分かる。
彼らは「~梵字」「~房」の名をもち、また「いろおしと申(す)ぼろに殺されけり」の用例があるので「ぼろぼろ」と「ぼろ」は同義とされている、なお、仇討ちの因となった事件は「東国」でのこととされるので遊行したこと、また「貫き合ひ」とあるので刃物の所持が窺われる。


  1. 【九品の念仏】念仏の調子をかえて、九通り唱えること。一説に、極楽往生を願って念仏すること。



17世紀には多くの徒然草の注釈書がつくられ、林羅山の「徒然草野槌」1621年が最も広く読まれた。羅山は『ぼろぼろの草子』という書物に「ぼろ」が描かれていることを紹介し、「其後薦僧と云うもの、僧とも見えず、俗とも見えず、山伏とも見えず、刀をさし、尺八を吹、せなかにむしろをおひ、道路をありき、人の門戸に立て、物を乞いもらふ、是ぼろぼろの流也と傳たり」と書いている。




ぼろぼろの始原として唯一の説であり、ここでは「近き世」をひとまず近世と解し、13世紀頃に生成された説として留意しておきたい。

さて「漢字」については不明であるが、「ぼろんじ」については、中国の音義 (1) 略解の一つである『希鱗音義』十八に、

「婆羅門、云云、自ら相伝していく、我梵王の口に従って生き、獨り梵名を取り、梵論師と謂う」

との例を見つける事ができる。
また「梵字」については「梵志」を当てた例だが『玄応音義』十八に、

「婆羅門。(中略)此の義は梵天の法を承習する者を云ふ。(中略)梵天の口より生じ」

とありほぼ同様である。このようにぼろぼろの名前は、バラモン教の根本原理たる梵天を志求する者=修行僧に由来する可能性があるのである。

また原始仏典の中阿含経 (2) 第四十八『馬邑経 (4)』に、

「諸悪不善の法たる諸漏穢汚 (5) の當来有の本、煩熱苦報生老病死(はんねつくほうしょうろうびょうし)の因たるものを遠離す、是を梵志と謂う」

とする例が知られる。仏教におけるこの解釈は、梵天と梵志の関係を継承しながら<梵天歓請 (6)>の後、梵天が仏の守護神になったとされることを前提にしている。


  1. 【音義】漢字の字音と意味。また、経典・古典に用いられた漢字の字音や意味を注釈したもの

  2. 【中阿含経】(ちゅうあごんきょう)とは、仏教の漢訳『阿含経(3)』の1つ。

  3. 【阿含経】(あごんきょう、あごんぎょう)とは、初期仏教の経典である。

  4. 【馬邑大経】(ばゆうだいきょう)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第39経。當来 来るべき世、来世。

  5. 【諸漏穢汚】しょろわいお・もろもろの煩悩 / けがれる、けがれたもの

  6. 【梵天歓請】バラモン教の神が仏教に取り入れられ、仏法の守護神とされ、梵天と称されるようになった。 なお、釈迦牟尼が悟りを開いた後、その悟りを広めることをためらったが、その悟りを広めるよう勧めたのが梵天と帝釈天とされ、この伝説は梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と称される。

 

 

(何だか、難しい仏教用語がずらずらっと並んでおりますが、要は暮露の語源はバラモン教から由来する梵天、梵志から来ているということですね。)

 


「世を捨てたるに似て我執深く・・・」以降の文は、ぼろぼろの一般的性格を述べたと思われる。

我執が強く、逃走を繰り返すとし、さらに兼好が放逸無慚 (1) 、死を軽くして原生になずまない (2) と見ている。
このうち「無慚」は自らの教法に照らして罪を恥じない心という意味であり、我執が深い事と密接に関わる。このようなぼろぼろの性格と冒頭の「九品の念仏」を統一的に解釈するならば、次のような仏教者としての性格が浮かび上がる。


  1. 【放逸無慚】(ほういつむざん)わがままで恥知らずなこと。また、そのさま。

  2. 【なずむ】泥む そのことに心がとらわれる。こだわる。執着する

 

 

そもそも『観無量寿経』(かんむりょうじゅきょう・大乗仏教の経典の一つ)に記される「九品」は、生前に積んだ行による九種の往生の仕方であり、その中には上品上生、つまり「諸の戒行を修し、大乗方等経典を読誦し、六念を修行」する<品>を含む。ところが日本における法然以後の専修念仏では、絶対なる阿弥陀仏の前に「九品皆凡」とし(相対二元図式)『無量寿経』中の第十八願(念仏本願)を核心と捉え、念仏一行を選択する。すなわち「九品の念仏」は専修念仏のものではないのである。ここで「九品の」と記される意味は、浄土往生の図式をもちながらも、諸行の一つとして念仏をすること、逆に言えば、その念仏行が諸行にも通じていることの表明にあるのである。さらに、我執が深く「無慚」と評されたことを合わせて考えるならば、ここでのぼろぼろは、仏と衆生の不二を説く古代仏教(顕密仏教)系教学から派出した仏教修行者であると見ることができるのである。



上記を短くまとめると、

九品の念仏は専修念仏 (浄土に往生するため,念仏以外の行をまじえず,〈南無阿弥陀仏〉とただひたすらに念仏を唱えること。)ではなく、仏と衆生の不二を説く古代仏教(顕密仏教)系教学から派出した仏教修行者である。

 


五来重著「絵巻物と民俗」に、暮露と徒然草の事が記載されています。

巻十七に安居院(あぐい)の聖覚法印が法然上人の三回忌追善のために、真如堂で七日の融通念仏を興行し、そのあいだに有名な説経をした事が出ている。
しかし、説法の図があって、老若男女や鹿角杖と紐袈裟の空也僧が描かれた他は、念仏合唱や行道の図は出ない。この巻で上野の国府の名円が遊行聖をとどめて道場をかまえて念仏を興行したとあるのも、融通念仏であろう。融通念仏は如法念仏となり、如法念仏は九品念仏となって「ぼろぼろ(暮露)の九品念仏」(徒然草115段)がおこなわれたからで、明円の夢に聖覚法印があらわれて説法したとあるのはそのためであろう。ここにある遊行者はおそらく「ぼろぼろ」のことで、道場というのは九品念仏の九棟の道場をさすものと思われる。

『法然上人行状絵図 第3輯 第7巻』 1924年 国立国会図書館蔵


『法然上人行状絵図』とは14世紀前半に成立した法然の絵伝。


『融通念仏縁起絵』にも、五来重氏が暮露と指摘した人々が描かれています。

https://image.tnm.jp/image/1024/E0023873.jpg


見出し画像にもあります、網野善彦氏の「日本の歴史をよみなおす」という本の表紙を飾っている、この三人組も、『融通念仏縁起絵』の暮露の人たちです。


『融通念仏縁起絵』とは 平安時代後期に融通念仏宗をおこした良忍(1073年-1132年)の事績や念仏の功徳について説いた説話を描いた絵巻物である。

この図は良忍上人が都鄙に融通念仏を勧進するところで、京洛の巷の衆庶雑踏を描いている。したがってこの一組の空也聖と鉦叩のほかにササラをする放下や拄杖を持つ放下僧、あるいは私が暮露、傀儡とかんがえる放浪芸能者が多数描かれためずらしい場面である (五来重「絵巻物と民俗」より)



「融通念仏縁起絵巻」に「異類異形」の人々。その中の一人を五来重氏が「絵巻物と民俗」の論稿で暮露と指摘。着物も紙衣ではなく柄物で長い棒を持ち何者ともしれぬ様子。(網野善彦著作集より)

服装のあり方が、人の心を深くとらえ、それを端的に表現するものである以上、人の心を問題にしようとする歴史学がそれを放置することは、むしろ重大な怠慢といわなくてはなるまい。 (網野善彦著「摺衣と婆娑羅」むすびより)



「南北朝動乱以前まで非人の集団は他の神人と同じく平民と区別された存在ではない。畏敬畏怖の対象であった一面もあった」
(「日本中世に何が起きたか」網野善彦著)



画一化されつつある現代からしてみると、暮露とはなんと魅力的な「異類異形」な人々でしょう!




こちらにも暮露に関する保坂氏の見解を載せていますのでご参考に↓



さてさて、吉田兼好さんは暮露たちの印象を、「世を捨てたようでいて自己への執着が深く、仏道を願うように見えて争い事を仕事としている。好き放題で恥知らずの様子であるが、死を恐れないで、少しも生に執着しない点がいさぎよく思えて…」と綴っています。


全てを持ち備えている超自然な感覚の持ち主。

ということでしょうか。


この時代に行って是非会ってみたいものです!





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