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指示待ち人間の何がそんなにダメだっていうんだろうか

  私は指示待ち人間である。それはもう、筋金入りの。自分で考えるなんてことはやったことがないし、指示してくれる人間がいなければ岩のように微動だにしない。


  だから世の中の「自分で考えて動ける人間がいい」という風潮は理解はするものの、内心「指示待ち人間をそこまで悪者扱いしなくてもいいやん…」と結構な反発を感じてもいるのだ。


  そもそも「自ら考え動けるよう人材が欲しい」とかのたまう奴らは、自分の要求があまりにも過大すぎることを理解しているのだろうか?自分で考えて行動するというのは、異人種に交わって危険を冒してリスクを取る、そういうことに他ならない。そんな生き方の根底に関わってくるようなことを一介の他人ごときがとやかくいうのはナンセンスである。自分で考えて行動できる人間というのはたしかにかっこいいが、世の中の人間全員がかっこいい人間である必要はないはずである。みっともなく他人に縋りつき、助けて欲しいと懇願しておんぶに抱っこを要求できるというのもそれはそれで一つの才能ではないだろうか。


  私はこれまで無理して「自分で考える」というのをやろうと試みたことがある。しかしその試みはことごとく失敗に終わり、惨憺たる結果だけが残った。向いていないのである。自分でやる、ということが。芥川賞をとった村田 沙耶香氏の『コンビニ人間』を私はいまだに読まずにいるのだが、あらすじを聞いただけできっと私のような人間の心をズタボロにしてしまう作品なのだろうなということが簡単に想像できた。

全てがマニュアル化されたコンビニでしか生きれない女性の物語

どうして社会は主人公ばかりを求め、私のようなモブの存在を糾弾するのだろうか。魅力的な人間が見たいならテレビで昔のキムタクを眺めて「ほわ〜っ」と言うか、キャバクラに行ってお金を払い接待でもしてもらえばいいのである。


  しかし実際の社会でこういう天邪鬼なことを言うと煙たがられるし、空気の読めない嫌なやつだと思われるのがオチである。そういうわけでわたしはいつものようにボヤッキーを発動してここでうめいているのだ。


  以前に別の記事でも書いたのだが、人間というものはバランスのとれたチームを一つの理想として追い求めながら生きているはずだ。世の中はなんでもバランスによって成り立っているのだから指示待ち人間にだってどこか居場所があってもいいのではなかろうか。まあ実際は指示待ち人間の方が多いからこそ「自分で考えられる人が欲しい」という言説が流行るのだろうが。だからもし自律思考型人間がこの世の大半を占めれば、逆に「求!指示待ち人間!」という世界になる可能性だってあるはずだ。そうなればしめたもの、わたしの天下も近いだろう。


  指示待ち人間は面白みに欠けるかもしれないが、それでも本人にとってはそれなりに考えていること、悩んでいることもあるのである。だからどうかそんなにいじめないで、優しく温かく見守って欲しい。そういう私の切なる願いをここに吐き出さざるを得ないのである。

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