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名前

いきなり失礼な話ですが人の名前を覚えるのが苦手です。最近の芸能人、特にアイドルグループの子たちは名前どころか顔さえ判別できない。まぁ次々出てきますしね。言っちゃえば興味ないんでしょうね。マジ失礼。

名前を知らないと話題についてけなかったり支障あるんですが、芸能人ならまだいい。仕事関係でもなかなか覚えられなかったりします。なんとか呼ばずにフワフワやり過ごしたり。よくないですね。反省しろ。

でも名前を覚えられないのは昔からで、例えばテレビドラマなどは毎週見ていても役名が頭に入らず演じる役者さんの名前で話してました。今でもそう。「ほら松潤がいつも喫茶店で監視するじゃん」とか。ちなみに松潤はブラックジャックやってほしい。すごく似合うと思う。

自分で小説を書く時は当然キャラクターに名前を付けますが、これも結構忘れます。前に使った名前をすぐ付けたり。下手すると書いてるあいだも忘れる。しばらく間違って書き続け、急に気づいて全部直したり。ドイヒーだな。

一応考えては付けるんです。名は体を表わすと、そのキャラクターに合ったものを。ここで逆張りはしません。実際は「名前負け」ってありますよね。外見や性格が名前と不一致、ズレすぎて自分の名前がコンプレックスなんてこともあるでしょう。それがその人の人格形成に影響したり。フィクションで言うならキャラ設定の1つになり得る。でもそのエピソードを挟む機会がなければただの違和感です。なのでシンプルに、らしいものを付ける。

結局は記号なんですね。キャラクターをさす記号。それを言ったら全部がそうで、名前もセリフも地の文の言い回しも、細かいことじゃある一言をひらがなにするかカタカナにするか漢字にするか、全体の流れでもシーンの配置、シチュエーションの工夫、それらは全部記号でその羅列。狙いたい効果に最も適したものを都度選んでるにすぎません。

そんなことを繰り返してるせいか、自分はある部分すごく雑なんだと思います。キャラクターの名前で言えば今まで何十人だか何百人だかに付けてきて、それは自分の子供に名前を付けるのとは当然違う。超テキトーです。この名前が一生ついていく、なんてプレッシャーはない。

でもこの雑さは創作のせいかな、と改めて考えると、違うかもしれません。名前については自分の本名さえ愛着ないんです。名字にしろ名前にしろ。

自分で選んだわけじゃなく、たまたま生まれた家の名字がこれだった。それだけ。それ以上でも以下でもない。下の名前も親が好きに付けたもので、自分が望んだものじゃない。

なので本名さえ記号、自分の中身とはあまり関係ないように思ってます。自分の一部ではあるけど、一部でしかない。大きくは占めてない。

ペンネームを使ってるのはそのせいが大きいかもしれません。本名に違和感あって堂々と名乗るのがなんだか恥ずかしく、なら自分で付けた名前の方がまだいいか、と。

KATARAというのはハワイ語で「陽の当たる場所」という意味です。意味もですが響きも気に入りました。

あとはなるべく正体がわからない方がいい、というのがありましたね。年齢も性別も見当つかない名前の方が作品には影響少ないと。なんらか見当がつく名前だと作品の邪魔しちゃう。今でもそう思ってます(なのでこういうエッセイは否応なく素が出るから実はすごく苦手)

他にもまぁペンネームの理由はいろいろあるんでしょうが、要は本名以外ならなんでもよかった。名を残したい、みたいな欲求はないし。ペンネームも記号の1つでしかないので、問題あるなら変えてもいい。そのぐらいの執着です。

元々変わってるんでしょう。

家由来の名字、親に付けられた名前、それに愛着ないのは育った環境のせいでしょうが、自然に愛着を持つような家や環境だったらずいぶん感じ方も考え方も違ったろうな、と思います。

例えば夫婦別姓の件にしても、現在のどっちかを選ばなきゃって押しつけは勿論「おかしくね?」と思うんですが、これまでの名字への愛着はよくわからなかったりします。

育った家庭があたたかで愛されたんだろうな、と想像したり、その名字で積んだキャリア、その苦労、別名を名乗ることの不都合、違和感、暮らすうえでのシンプルな面倒などは想像、理解できますが(だからこそ「結婚したら同姓に」って縛りはアホらしいと思いますが)名字にこれまで培われた価値があるんだな、それが愛着に繋がってるんだろうな、と思ったりします。

それは同性カップルの結婚についても思うことで、異性間ではなんの問題もない結婚が同性間ではハードルあるなら不公平、ひどいし変えてくべき、と思う一方で、「結婚に価値を置いてるんだな」と思う。

その制度で扶養や相続などの現実問題が左右されるんだから沿おうとするのは当然で反対ありません。結婚に限らず制度、ルール、しきたりなどは人の都合で生まれたものでしょう。例えば一夫多妻制じゃ揉める、なら一夫一婦制にしよう、みんなが好きにしたら大混乱だ、それを防ぐのに設けてったもの。

だから「守れ」と言うんじゃなく、人の都合で作ったものならどんどん変えてけばいい、不都合でてきたらブラッシュアップすれば済む話です。

ただしそのルールによって価値っていうのは生まれるんじゃないか。いま価値と感じてるものはルール(人が都合で作ったもの)で思い込んでるだけじゃないか。刷り込まれてるだけじゃないか。

結婚という制度を設けたからそこに向かうのが達成、幸福に見えてくる。ケジメという通過儀礼と捉えるから実際に成長もする。そして結婚相手を裏切るのはいけないこと、不倫となり、だからこそ背徳感が増してやめるどころか逆に燃え上がったりする。

さっきの一夫多妻制にしてもそれが当然、しきたり、そのルールに従って揉めないことが美徳、価値とされてるから抵抗なく従い、従うことでさらに価値が強まる。さらに価値観が行き渡る。

しかしルール外の人にはなんの価値もない。感じない。おかしくて野蛮にさえ見える。

ルールも物の価値も人為的なもので、「未来永劫変わらない」というものじゃないでしょう。

宝石は希少ゆえに価値あるようになってますがただの石ころ。レアメタルはその特性が価値ですが、使い道というシステムがあるから生まれた価値。化石燃料もそう。それによって人の暮らしは格段に楽になりましたが、環境を破壊する。それでも楽な方がいい、昔には戻りたくない、という都合が価値を生む。

都合でルールを作り価値を生み、その中で競い合ったり諦めたり一喜一憂し、物語を生きるのが人なんだと思います。

もちろん自分もその一員で上から何か言いたいわけじゃなく、そもそもの話。そもそも論は嫌われがちですが、根っこで土台でそこを踏まえないと上に何か建ててもグラグラ。スタートラインとして必要じゃないかと。めざすべきゴールかもしれない。しっかり押さえないと迷う。ブレる。話はそれからじゃん、といつも思ってしまいます。

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