見出し画像

余談:石見銀山は、富岡製糸場につながるらしい

ラテンアメリカの奴隷構造を調べていたときに気づいたこと。
 
16世紀はスペインの植民地だったラテンアメリカで銀山開発が進み、ヨーロッパは「銀の時代」になった。一方で、この頃ポルトガルはアジアに進出していて、そこでラテンアメリカに引けを取らない“銀の国”日本を知る。(そして当時の日本の銀は、そのほとんどが石見銀山で算出されていた。)
 
ポルトガルは南蛮貿易によって日本の銀を確保し、それがヨーロッパに流れ、ヨーロッパは銀の時代をさらに加速。その他の社会要因なども絡み合って価格革命が起こり、社会構造が変化していく。
 
一方で、日本の銀はポルトガルに独占されていたわけではなく、むしろその多くが中国王朝の明あるいは清に流れていた。

それは生糸の輸入

当時、生糸は中国からの輸入に頼っていた。当たり前だ。当時の中国は世界一の生糸生産国。というより中国自体が、5,000年前に世界で初めて蚕の繭の性質を発見し、紀元前5世紀までには養蚕業が確立されている、筋金入りの生糸・絹製品大国。シルクロード(オアシスの道)の名は伊達ではない。
 
だから日本の権力者にとってみれば、どう考えても自前で開発するより輸入した方が効率が良かった。

そのため、マカオにいるポルトガル商人が中国から生糸を買いつけてそれを日本へ売りつける南蛮貿易や、あるいは長崎にやってきた中国の商人などによって、大量の銀の流出と引き換えに生糸を手に入れていた。
 
しかし江戸時代に入り、幕府は諸外国との貿易統制を厳しくしていく中で、あまりに生糸の輸入に頼りすぎている現状を懸念。というより、生糸の輸入であまりに多くの金銀が流出していることを問題視。それによって国内の絹織物業は、生糸の国内生産を構築する必要に迫られることになる。

こうして国内の生糸の生産量は少しずつ高まっていった。
 
200年後。江戸幕府は開国を迫られることになった。諸外国は日本との貿易を始めるが、ここで日本の主力製品となったのが生糸。

欧米は国民国家の形成や戦争の頻発などにより絹製品の需要が高まっていたが、ヨーロッパ内の養蚕業は微粒子病が蔓延してカイコが壊滅状態だった。また、これまで輸入を頼っていた中国王朝(当時は清になっている)は、欧米列強の首魁たるイギリス御自らがアヘン戦争やら何やらで国内をぐちゃぐちゃにしていたこともあって、生産体制が不足していた。
 
そして、そもそもどうやら日本の生糸は技術改良を重ねていった結果、かなり品質が高かったらしい。
 
そんなわけで日本の生糸が供給されていったのだが、現実として当時の日本は手工業ベース。とてもじゃないがヨーロッパの需要量に追いつくわけもなく、また品質の統一基準があったわけでもないため、粗悪な製品が輸出されることもあったらしい。
 
そこで、せっかくのビジネスチャンスを活かさんと、富国強兵政策を掲げていた明治政府自らが積極的に主導して、生糸の大量生産実現に向けて技術革新を目指すことになった。
 
そのためにつくられたのが、富岡製糸場
 
富岡製糸場はその期待に応えて、安定した品質の生糸を大量生産することに成功。後に日本は、世界一の生糸輸出国へと躍進を遂げる。大量の生糸が欧米に輸出されたことで日本は多くの資金を手に入れ、富国強兵政策が進められることになり、列強の仲間入りを実現させていく。
 
一方で世界的には、大量の生糸が欧米に運ばれて、絹製品の大衆化に大きく貢献した。
 
こうした日本の産業革命の牽引役であったことや、世界の絹製品の普及への功績も含めて、富岡製糸場は文化遺産に登録されている。
 
――――――――――――
 
時代も場所も背景も異なるものが、ある切り口でつながっていく感覚を味わえるのは、歴史の醍醐味の一つだなと思います。
 
石見銀山と富岡製糸場と、ついでに京都の絹織物などとで手を組んで、「時を超えたジャパン・シルクロード」みたいな企画したらいいのにな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?