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コミュ力がお化けすぎる?中臣鎌足

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大化改新の英雄にして、藤原氏の始祖

中臣鎌足を一言でいえば、まさにこの小見出しのイメージだと思います。
 
彼は神事・祭祀を司る氏族・中臣氏の生まれです。
中臣氏は「連」の姓を有する有力豪族のひとつ。仏教公伝時には、当時の長である中臣鎌子は同じ連である物部尾輿(彼は大連なので格上ですが)と共にいわゆる“廃仏派”として、“崇仏派”の蘇我稲目を非難する側にまわっていました。しかし、鎌足の父にあたる中臣御食子は、推古天皇の崩御の際に蘇我蝦夷と組んで田村皇子を次期天皇に推挙していて、この田村皇子は舒明天皇となり、後に中大兄皇子(天智天皇)らの父となります。
 
ちなみに中臣氏の先祖は天児屋命という神様とされています。『古事記』では、天児屋命は天照大神が天岩戸に隠れた際に祝詞を読み上げ、外の騒ぎが気になった天照大神に鏡を差し出して天岩戸を少し開けさせ、天手力男神が天照大神を引きずり出すためのサポートに貢献しています。なるほど、こういった知的な立ち回りはいかにも中臣氏・藤原氏っぽいです。 

生まれに関する謎エピソードと神童ぶり

そんな中臣氏の長男として、鎌足は614年に生まれます。奈良時代に成立した藤原氏の家史である『藤氏家伝』によると、鎌足は母親の胎内にいるころから泣き声が体外にも聞こえるほど大きかったらしい。そして妊娠期間が12か月と長く、そのことを祖母は「非凡で人知を超えた業績をなす」と讃えています。武勇伝にしては中途半端だな。
 
鎌足は連の長男であるため当然エリートです。加えて、どうやら彼は祖母の讃えた通り幼い頃から飛び抜けて優秀だったようで、様々な分野の書伝を読みあさり、『六韜』をすべて暗記していたらしい。この『六韜』とは3巻60編からなる中国の兵法書で第2巻の「虎韜」は、“虎の巻”という慣用句の語源にもなっているものだそうです。

また、この中臣鎌足という人物は、当代の大物たちにことごとく気に入られるという謎のコミュ力を持つ人物でもありました。

遣隋使メンバーにこぞって気に入られる

鎌足は体が大きく上品で容姿も優れ、前から見る者は仰ぎ見るように接し、後ろから見る者は拝むように頭を垂れ、当時権勢を誇っていた蘇我入鹿でさえ、彼の前では慎みかしこまった態度を自然と取ったとされています。
 
かつて小野妹子とともに隋に渡り、隋が滅び唐が建国された経緯や隋・唐の国家体制を学び、帰国後の朝廷の政治体制に大きな影響を与えた僧旻は、彼のことを「自分の仏堂に出入りするものの中で蘇我入鹿に並び立つ者はいないが、そなた(鎌足)だけは彼を遥かに凌駕している」と讃えています。
 
また同じく隋に渡って戻ってきた南淵請安が開いた塾にも通い、そこで蘇我入鹿と同じく秀才と評価されています。が、この塾の道すがらで、同じく門下生だった中大兄皇子と一緒に、蘇我氏を打倒する策を考えていたとも言われています。

この僧旻と南淵請安は、同じく遣隋使の高向玄理と並んで、隋・唐という世界最先端の舞台で長きにわたり学んできた、国内一の学者と言えます。その面々にここまで言われる鎌足のすごさが分かります。(同時に、その鎌足と並び称される入鹿も、やはりただの世襲政治家ではない切れ者だったことが伺えます)

蘇我入鹿と同窓で、中大兄皇子とも同窓

中大兄皇子とのエピソードは有名で、蘇我入鹿とも関わりがあったことも知られている話です。この関係性を使ったフィクションもいくつも出ているのですが、よく考えたらすごい話です。
 
当時最先端の学びがあった塾で学友(しかも共に秀才と並び称される)。父親同士は共に手を組んだ仕事仲間。その入鹿と鎌足が、やがて決別し、ついには古代史上最大のクーデターの当事者同士になる。このとき2人に何があったのか…。確かに物書きの想像を膨らませやすい背景ではあります。 

孝徳天皇からも未来を託されている

一方で鎌足は、乙巳の変で天皇となる孝徳天皇からも信頼と自らの将来を託されていたと言われています。
 
『日本書紀』によると、変が起こる1年前の644年、鎌足は中臣氏の家業を継ぐと、代々中臣家が担当してきた神祇の職を断り、三島(今の大阪府あたり)に退きます。そこで皇太子時代(軽皇子)の孝徳天皇と接触し、将来を語り合ったと言われています。
 
なおこの孝徳天皇は、皇太子・中大兄皇子と反りが合わず、何年にもわたって確執を生み出したあげく、最終的には中大兄皇子が群臣を引き連れて当時の都(難波長柄豊碕宮)から元の飛鳥板蓋宮に戻ってしまい孝徳天皇を孤立させるという形で、袂を分かつこととなります。 

大海人皇子からも信頼されていた?

天智天皇の弟・大海人皇子は、天智天皇の御代のころから政権の中枢で活躍していましたが、兄弟関係は険悪だったとされています。天智天皇が崩御寸前のときに大海人皇子を呼び出して、「次の天皇に」と指名したものの、それ自体が大海人皇子を謀反人として消すための罠で、その意図に気づいた大海人皇子が即刻地位を捨てて吉野へ逃れるというエピソードは有名です(その結果、天智天皇没後に現政権への不満勢力が大海人皇子を担いで壬申の乱に発展します)。
 
一度は、朝廷内で大海人皇子がカッとなり武器を持って襲いかかろうとしたことさえあったようです。が、これをなだめたのが鎌足だと言われています。がっつり天智天皇派であるはずの鎌足を大海人皇子はとても尊敬しており、振り上げかかった拳を引っ込めたとされています。

盟友・中大兄皇子と対立した人物からも、ことごとく信頼を得る

こんな感じで、時の権力者・天皇・若き皇太子・エリート僧や学者・天皇の弟まで、鎌足は政権の中枢を担う目上の人物から、ことごとく信頼されています。それどころか、蘇我入鹿・孝徳天皇・大海人皇子と、盟友・中大兄皇子が決裂した人物からも一目置かれているのですから、どれだけバランス能力やコミュ力に長けていた人物なのかと思わせられます。(逆に言うと、中大兄皇子はどんだけ敵をつくったんだとも思えますが)
 
ちなみにこの能力は、鎌足の息子・不比等にも受け継がれているようで…。彼は幼くして父と兄を失い、壬申の乱において敗者側にいたにもかかわらず、いつの間にか天武天皇に(持統天皇を介してではあるが)仕え、決して支持基盤が強くない新興勢力の氏でありながら持統天皇や文武天皇ら5代の天皇の最側近となり、さらには百済系の帰化勢力、長屋王ら皇親勢力、阿倍氏などの当時の豪族のリーダーとことごとく婚姻関係を結んで対等に渡り合うなど、謎の人間関係構築力と立身出世で飛鳥後期から奈良時代前期を生きぬいています。 

しかし全部嘘かもしれない

というわけで、鎌足は完全無欠のコミュ力モンスターで、大化の改新の中心的人物として納得の気量のある大人物でした。…ということで締めくくればいいのですが、話はそこでは終わりません。
 
実はこれまでのエピソード、そのほとんどが『藤氏家伝』をソースとしています。『藤氏家伝』は、鎌足のひ孫である藤原仲麻呂が、鎌足と父・武智麻呂を後世まで讃えるためにつくられた資料です。仲麻呂は極めて頭の切れる優秀な人物であったと言われており、『藤氏家伝』も当時を伝える歴史的資料として質の高いものであると言われています。が、元々の目的が上述した通りなので、もちろん都合のいいものは盛っていますし、都合の悪いものは無かったことにしています。
 
例えば、大化改新直後に古人大兄皇子を謀反の疑いで謀殺したこと、孝徳天皇と中大兄皇子の確執、白村江の戦いの大敗、その後の近江への逃走・迷走などはスルー。それどころか天智天皇の治世下では三韓(朝鮮半島の各国家)は服属していたとまで書く始末です。
 
なので…。これまで紹介した超絶コミュ力モンスター・中臣鎌足は嘘かもしれないという話です。もっとも、『日本書紀』においても鎌足の武勇伝はいくつか記載されており、さすがに全部嘘とは思えませんけど。

おまけ

コミュ力高い人と話すの苦手です。

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