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固定概念は教育の敵

教育分野において固定概念というものは邪魔になります。
いわゆる決めつけというやつです。
私は小学生の頃、結構最悪の悪ガキでした。先生方をはじめ、大人たちが「やるな!」ということをどうしてもやりたくなって、怒られてばかりいました。当然といえば当然ですが、悪ガキも悪いことばかりしているわけではなく、たまに良いこともします。
しかし、悪いことばかりする子供というレッテルを貼られるとクラスなどで問題が起こるとだいたい真っ先に疑われる立場になります。私の場合、たいてい僕の仕業だったので、正直に言って怒られておくか、誰かに告げ口されて怒られたりもしました。たまについでに誰かのやってしまったことも、代わりに怒られておいたりもしました。まあ、今思うと困った子供でした。

そのような立場で小学校生活の大半を過ごした私の目から映った大人たちの生徒を見る目線というのは不思議と冷静に見られたものです。
自ずと物事は上から見るより、下から見たほうがよく見えるということを直感的に知ることができた時期でした。

このような経験から、子供の目線の方が人を見る目、もっと言うならその人の本質を掴む能力に鋭いものがあるのではないかと思っています。これは、少し乱暴な表現かも知れませんが、余分なしがらみ、余分な知識、余分な固定概念が少ないからにおよそ相違ないように思います。

その頃の経験から、生徒さん(私より大きく年下ですので)に対して、ごまかしや嘘は通用しないことを肌で知っています。バレます。
また、子ども目線からは、自分のことをどう見ているのかということについても大人以上に敏感であることも承知しています。これは、例え親子関係であったとしてもです。
しかし、一部の指導的立場の大人が全くそれに気づかないで、やり過ごしている人を見ることがあります。これは、端から見ていると哀れと言える状況を生みます。どちらが哀れなのかは、申すまでもありませんね。

そこで私のとっている立場は、とにかく正直にあるがままで自らを負の部分も含め、そのままさらけ出すことを旨としています。とりつくろわない、あるがままの自分、これが大切だと思っています。まあ、そういう風にしか生きられないという問題点もあることはあります。

これまで、様々な生徒さん、中には学習障害と何処かで診断をもらってきた生徒さんや不登校の生徒さん、勉強面だけではなく様々な悩みを抱えた生徒さんと対峙してきましたが、ほぼ開始初日に心を開いてくれます。
親御さんには、とても不思議がられることもあります。
おそらくそうなるのは、あるがままの自分で会いに行っているということと、どんな状況であったとしても全て人それぞれ個性の一部だと心から思って臨んでいることがどこか伝わるのではないかと思います。

昨今、親御さんの中に勉強ができない、行動に落ち着きがないなどの諸症状のお子さんに医者に診断書をもらおうとされる方がたまにおられます。
深く悩み抜いた挙げ句ということなのだと思いますが、私の考え方はこうです。おそらく、賛否両論分かれるところであると思いますが、それを承知で書きます。
私は今までそうしようとした親御さんにストップを掛け続けてきました。
なぜなら、いずれ社会に出ること、働いてご飯を食べていけるようにならなくてはならないことを念頭において、眼の前の学校で学ぶことがあるとしたら、そのレッテルを社会的に貼ってしまうことが何の意味があるのか分からないからです。人は生まれながらに平等ではありません。能力差もさまざま、考えてみれば全て不揃いに生まれ、そして育っていきます。そこがベースであることが当然のこととして捉えなくてはならないのです。たまたま所属した集団、例えば学校の中で、何かができない、できる、ということがどれだけ人生を左右するのでしょうか。答えは否です。
私の周りには、いろいろな友達、良い仲間たちがいますが、中学の頃、全く勉強なんかせずに遊んでばかりで、中卒で立派に会社を起こして社長をやっている先輩もいます。私はその先輩を心から慕っています。

普通という言葉がありますが、普通って何なのか、簡単に使いがちな言葉ですが、よく考えれば人間社会の中でこの言葉の真意を掴むことほど難しいことはないのではないかと思います。
大切なのは、その生徒さんの能力に合った常識と良識のある教育を施して、その先の未来へと繋いでいくことではないでしょうか。

私のこれまで送り出した生徒さんの中には、そのようなレッテルを貼られそうになっていた生徒さんが何人もいましたが、全員立派に努力して高校を合格、卒業し、大学へ進学する人はして、見事就職してくれました。
私の中では受け持った生徒さん全て、人それぞれ個性があっていい、家庭教師としてどこまで進められるかという発想しかありません。もっとも、その発想は普段の生活の中でも同様です。

しかし、ここでことわりを入れなくてはならないのは、これは当然のことでもありますが、国が認めた障がいのある方については、この限りではありません。実は私の長女は生まれながらの障がい者認定1級で要介護認定を受けております。家族の中にそのような状態で生まれてきた子供を育ててきましたが私はそれも個性であると思っています。娘を介護してきたことによって私の知らなかった世界を教えてもらい、娘がお世話になってきた方々とのつながりも生んでくれました。娘には心から感謝しています。

話を戻しますが、教育において固定概念というのは、偏見という言葉と同義になるのではないかと思います。それは、ただただ障壁を作り判断を間違わせます。
人それぞれ、十人十色、自分以外の誰かを引き算で見ようとすることは、極力止めるべきであって、それが偏見を生み、その人はそういう人なんだと独りよがりの固定観念だらけの人物評価につながります。

そこで、勘違いしてはならないのは、個性は認め合うべきではありますが、みんな仲良くということは違うと思います。それは不自然です。
個性を認めるということは、相手との距離感を同時に学ばなくてはなりません。現在の学校教育の中で、妙にバランスが悪いことが耳に入ってきます。

教育の現場では、偏見からくる固定概念を排し、人と人との付き合い方、距離感を上手く取る方法を伝えられれば良いのになと少し感じます。
SNS文化が広まり、日常になり、どっぷりと浸かってしまっている日常社会、大人より実は子どもたちの方が上手くやっているのではないかと思うことがあります。

人物評価というのは、柔軟かつ多面的でなければならないということ信念が必要です。
指導的立場の人間が観念的であればあるほど、される側は窮屈になり、その人材の才能を活かすことができません。
日々、眼の前の人材をいかに活き活きと才能を伸ばしていけるようにアシストできるのか。
そのためには、自分自身も活き活きといかに生くべきか、
禅問答のような日々は続きます。



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