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「花夢」を視聴して

パブリックコメントの提出を優先していたため、
話題のタイミングとズレてしまいましたが、
以前話題になっていた芸大生の卒業制作について、
少し思う所を書いてみようと思います。

今回は作品の趣旨の考察と、その作品が生まれた背景の考察、
また、生成AIが作品にもたらした功罪を分析していきたいと思います。

この記事を書くにあたり、KALINさんに許諾は頂いております。

今回は背景の考察から、今の学生を擁護する側面もある内容となります。
ただ念のため誤解の無いよう自分のスタンスを先に書いておきますと、
私自身は、現時点での生成AIの利用を良く思ってはいない、
という事は先んじて書いておきます。
また、作品側の視野ばかりの補足では公平とならないため、
強い賛否が起きる背景も書き留めていきたいと思います。

「なぜそうなのか」のバックグラウンドに、
思いを馳せることは大切ではありますが、
立場によって見える物は全く違うと思います。
今回の記事が、思考における視野の広がりの助けに繋がれば幸いです。


作品のスタイル考察

まず最初に私は、
「芸大卒展で生成AI利用したアニメもあって凄い!」
みたいな内容でこの作品が流布されているのを見て、
それにより荒れているのを目撃しました。

そのため第一印象は軽率な利用者が出たのかとも思いましたが、
元々美術鑑賞の趣味があり、美術系の卒展もよく見に行くので、
(何年かに1度くらいのペースですが)
このような展示は「場」も大切である事を知っていたため、
本当にそうなのかな、と調べてみる事にしました。

まず、どのような作品であったのかは、
以下の記事に載っています。

ちなみに私は今年は都合がつかず、
現地に行って見ることは出来ませんでした。

ですが上記記事の画像を見て分かる事として、

1 壁に書かれた作品説明を目にする
2 個人または少人数しか入れない狭い空間で作品を視聴する
3 感じたことを付箋にしたためる
4 他の視聴者の付箋を目にする

この作品を体験する際には、
上記のようなプロセスが展開される事が分かります。

つまりこの作品は、
「生成AIでアニメを作りました!」が主題なのではなく。

日常から切り離された空間で、
生成AI利用により制作された作品と個々に対峙することにより、
これからの「生成AIがある世界」とどのように向き合うか。
それを所作を通じて考える事、考えた他の人の意見を目撃する事。

忙しい日常に押し流されて、なかなか作る事の出来ない、
そういった「向き合う機会と場」の「創作」
それこそがこの作品の主題であると私は感じました。

私も生成AIにまつわる問題を曖昧なままにしないための、
思考材料の提示の為にnoteを書いてみている立場ですので、
これは今の時代に真摯に向き合う為に有意義な、
とても素晴らしい試みだと感じます。

今の学生が対峙しなければならない現実

ではなぜ卒制がそのようなスタイルとなったのでしょうか。
それには、今の学生が直面している現実に目を向ける必要があります。

既に社会に出ている身からすれば、
生成AIは後からやってきたものですが、
今の学生にとっては、社会に出る時には既に、
「社会に生成AIが存在している時代」になっているのです。

もともと学生から社会人への変化には、
何者になるのか、そもそもなれるのか。
多くの期待と不安の渦中にあります。

もし懸念はあることを一部知っていたとしても、
「今後、利用されるのが当たり前になる」と聞かされているのに、
ノータッチなままでいて「何物にもなれない可能性」への恐怖は、
相当なものではないかと思います。

そのような状況で、
同じ目的を達成する上で、生成AIを使う人と使わない人では。

品質に関しては見方によりますが、ベースアップが可能とされ、
時間効率においては顕著に有効なのは確実で、
生成結果として考えれば、後者は前者に対して、
大きなハンデを抱える事になってしまいます。

私などから見れば、まだそれがハンデとなる程には、
社会は生成AIを受け入れてはいないのですが、
学生は各々の能力、自身の存在意義とも思えるものを、
天秤にかけられるタイミングが待つ身なのですから、
この事は決して無視することはできないでしょう。

それに既存の手段、今回の事例で言うとアニメ業界はというと、
労働環境や、その対価がお茶の間に認知されるほど問題視されつつも、
解決する気配は見えていません。
対して生成AIの出現で誰でも表現が簡単に出来ると言われ、
メディアが懸念も示さず驚きとともに伝える事が常態化しており、
その労働環境改善の可能性も示唆がされている訳です。
(この事は、実際はそんなに単純な話ではないのですが、
掘り下げると長くなると思うので今回は触れません。)

この状況をお金で例えるなら。
社会に出る際に1000万円(ポテンシャル)が与えられるけれども、
10年間は、以下のどちらかで塩漬けしなければならない事になっていて、
・ ゼロ金利のままの円定期預金
・ 新しく登場した期待値の高い仮想通貨

どちらかを選ぶことを強いられている
という状況に近いかもしれません。

加えてインフレによる物価上昇の懸念があり、
(物価に対し、金額の相対価値が緩やかに低下する懸念)
メディアではそのインフレ対策には、
後者を選ぶのが賢い道だと有識者が叫んでいる、
そんな環境を想像すると、案外近いかもしれないですね。

(念のため、例として条件を似せたものであって、
投資そのものを否定する意図はありません。
まぁでも、仮想通貨やFXには手を出さない方が良いとは思います)

10年経たないと、どちらが賢い選択だったかのはハッキリ分からない、
どちらを選ぶも一種の賭け。

その2択を迫られているように見える環境が、
現在、社会情勢によって作られているのではないかと思います。

荒れた理由の背景

さて、このように見ていくと、
KALINさんの作品が生成AI利用というだけで非難されたのはおかしい、
と考える人もいるでしょう。
ただ、この事象についても、背景を理解しておく必要があります。

現在SNS上では、生成AIに懸念を示したイラストレーターに対し、
生成AIを利用して、その方のLoRAを作成し、
(LoRA:その人の個性的な絵柄に、出力を特化出来るようにする手法)
その画像を連日投稿して煽ってみせたり、
そのLoRAを勝手に配布したりする層が一定数います。

学習元イラストレーターの方の活動妨害を目的に、
アカウントなりすましまで行っている人もいます。
その結果、実際に活動休止に追い込まれた方もいます。

また、日本ではまだ目立たないものの、
生成AIによるディープフェイクを利用した、
ディープフェイクポルノ被害というものも既に生まれています。

そのような「誰かを追い込む目的での利用」を初めて知ったという方は、
以前から生成の問題を追っていなければ普通は流れてこないので、
知らない方もいるのは仕方ないことだと思います。
それぞれ、かなりキツイ内容なのでリンクは貼りませんが、
詳しく知りたい方は少し調べてみてください。

そのような被害を受けた、または被害者を減らしたい、
そういう立場の視点から見れば。
そのような悪意ある利用も可能な技術を、
問題を野放しにしたまま被害者の存在に目を瞑ったまま、
社会全体が技術を受け入れてしまおうとするかのような流れには、
懸念を表明し、阻止する必要があると考えるのは自然なことです。

利用を非難するポストだけ見ると攻撃的に見えるかもしれませんが、
実際は「新しい被害者を生み出さない」ための行動です。
あなたが未来の被害者にならないよう、声を上げている方々とも言えます。
良い面だけを享受する盲目的な利用者が増えて、
社会が「被害者の存在に蓋をする事」を危惧しているのです。

「それは個人ではなく、ビックテックの責任で解決すべきことでは?」
といえばその通りの事ですが、
彼らは競争に夢中で、全く自浄作用が働いていないのが現実です。
ハリウッドのように民意を示すためには、
日本の場合、個人で出来る事は、SNSで声を上がる事からでしょう。

「それは個人ではなく、法で解決すべきことなのでは?」
と言われても、それはその通りです。
しかし声を上げる人がいないと、法整備も進まないのです。

中には対話にならない程、
過度に攻撃的な方も時々見られる事には懸念もあり、
人格攻撃に近い暴言は認められるものではないものの、
今作は問題に無関心な方々に、
「生成AIだ、凄い!」みたいな流布がされてしまったため、
それによって否定的な意見も集まってしまう事、
そのこと自体は、必要な健全な働きである側面が見られます。

作品から見る生成のメリットとデメリット

さてここまでは、
「実際はどのような趣旨の作品であったか」、
「その形になった背景はなにか」、
「それに賛否が生じた背景には何があるか」、
という話を書いてきました。

しかし「生成利用作品」の側面が流布されてしまった結果、
「利用の賛否」の方が注目されてしまい、
作品自体の分析や批評はあまり見ない気がします。

なのでここからは、生成利用が作品に何をもたらしたのか、
その功罪を分析していきたいと思います。

ただ極力客観的に書くつもりではいますが、
私は「生成AI自体を良く思わない立場」ではあるため、
そのような偏向が入る可能性はご留意の上、お読みください。
「技術を良く思わないから、そう感じるんじゃないか」
と、思って読むくらいで丁度良いかもしれません。

まず、分析する映像作品「花夢」は、コチラから見れます。

以降の趣旨と外れてしまうので、
手描きアニメーション部分についても先に触れておくと。

手描き部分は結構好きです。

カバンを掴んで持ち上がる所や、
丸太を渡る時の足運び。
そういった所作の「丁寧な観察と描き方」は、
非常に魅力的で、好ましく感じました。

メリットについて

まずメリットに関しては記事に載っていますし、
機械的な理由でハッキリしていますので、
申し訳ないですがアッサリと済ませようと思います。

記事に「1年で3分半が“7カ月で8分半”に」とあるように、
・ 時間効率のアップ
また、その副次的な作用として、
・ 力を入れたい部分へ注力
今回の場合、手描きのアニメーション部分ですね。
そのようなメリットがあったようです。

このことを商業アニメの問題解決へは、
単純に適用する事は出来ないものですが、
(また掘り下げると長くなるので今回は触れません)
個人制作においては間違いなくメリットと考えられる部分でしょう。

デメリットについて

次に、違和感を感じた部分について触れていきます。
ここからは少し辛口の意見になってしまいますが、
激励と受け取って頂ければ幸いです…!

KALINさんのYouTubeでは、過去作品も見られます。
それと比べて生成利用により作画品質は上がっているにも関わらず、
正直、「初見では感動はしにくい」とは感じました。
(一応ですが、全てを理解した上で何度か見返した場合には、
KALINさんが熱意をもって表現しようとした部分が見えてくるので、
そこに至っては、上述の手描き部分の良さも含め感動はしました。)

その「初見では感動はしにくい」原因について、
考察していきたいと思います。

ストーリー面について

まずストーリーに関して。
正直、初見ではよく分かりませんでした、
…というと、少し語弊があるかもしれません。

場面転換は多いものの、話はなんとなく伝わりました。
ただ女性との出会いや別れの思い出と、
花を探して山林を彷徨う理由が繋がらず、
作品として何を伝えたいのかが、最後まで分かりませんでした。

記事を読んでの通り、プロットはChatGPTを利用したそうです。
やりとりは以下のリンクから読めるようで、
私は全部読ませて頂きました。

https://drive.google.com/file/d/1J6KzFll_FbP4sRQYzzj_YaSiVyZjQ2CV/view

これを読んで強く感じたのが、
ChatGPTにありがちな「もっともらしい嘘」です。

無声アニメでやるには説明が難しい内容に思えますが、
「私は無声アニメのストーリーを考えるのは得意である」という態度で、
今回のプロットを提案していた事が分かります。

質問を繰り返すほど、無声アニメでは表現が難しそうな、
複雑なプロットを提案してきています。

また、ChatGPTが何故このようなプロットを提案するのかを見ると、
シナリオ自体の導線が感動的かどうかより、
老人、恋愛、花…
登場人物やアイテム「自体」が持つ「モチーフとしての感動性」に、
妙にこだわってばかりいるように見えます。

ハッキリ書いてしまいますと。
ここで提案されているのはシナリオのプロットではなく、
「コンセプトアートを文で表したもの」ではないでしょうか。

なのでストーリー展開のプロットがほぼ不在のまま、
1枚絵のイメージだけで脚本を起こさなければならなかったのと同じ、
という状態に近いように感じます。

脚本化においてKALINさんが手を抜くことはなかっただろうと思いますが、
プロットの時点から「作品として伝えたいもの」が見えないまま、
進行せざるを得ない事になっているのだと思います。

初見で「よく分からなかった」と感じたのは、
自分はこの「伝えたいものの不在」を、
どことなく感じ取れてしまったのもあるのだろうと思います。

背景描写について

次に、制作時間の効率化に貢献した背景描写です。
「短時間で情報密度が上がったこと」の、副作用が見えます。

まず老人の歩く森。
前半は山林風ですが、場面によっては植生が亜熱帯風に感じます。
ChatGPTとの会話でジャングルは出てくるので、
本当にジャングルを指定したのかもしれませんが…
それにしては小川の川魚や小鳥、鹿など、
前半は日本等の山林に見られそうなタイプの動植物が多く見られます。

引きの場面の存在から、
大きく別の国へ移動したとは考えにくいので、
理由もなく変化する植生が、場面理解の「ノイズ」、
「映像に集中させてくれない要素」
となってしまっていると感じます。

例えば同じYouTubeチャンネルで見れる過去作、
「岩神様」においても山林の描写はありますが、
何の木や草か分からない程度の描写であるものの違和感はなく、
生成画像程の密度はなくとも、
爽やかな色味による野山の空気、季節や時間の変化、
そういったものを丁寧に感じさせる魅力が見られます。

岩飛びのように殆ど白背景に近い場面もありますが、
作品のストーリーテリングには必要十分な描写であり、
もしリメイクとしてこの場面に密度の高い背景を組み込んだならば、
作品のリズム感として、この場面に感じる「静」に対して、
作品のノイズになるだろうと思われます。

そのように、生成画像によって生まれた背景の情報密度感は、
パッと見では品質向上に貢献しているかのように見えるものの、
「作品の品質」を向上させているかどうか、という視点であれば、
必ずしもそうとは言えないように感じました。

2つ目に、1分5秒辺りの場面。
右の空が大きく抜けておりコントラストも高いため、
視線がそこに強く誘導され、
次の場面で青空に何か意味があるのかと見つめていましたが、
場面が進むと、空は特に重要ではなかったことに気付きます。

これは背景を場面に合わせた適切なコントロールが出来なかった、
という事だと思います。
場面の意味を維持するためには、
生成利用で浮いたという時間を、その生成画像の調整時間として、
もっと多くかける必要があったのでしょう。

これらを技術(テクノロジー)の問題、と考える人もいるかもしれません。
まぁ技術の問題として解釈する場合は、新しい技術程良くなるので、
「もう最初からSoraでいいじゃん」みたいな暴論にも繋がりかねませんが、
それは使う前提としない場合であっても、
下絵を描くことで、ある程度出力を意図に沿わせる技術も出てきています。

しかし当然ながらそれをもってしても、
脳内のイメージがそのまま出てくる訳ではありません。
時には元々イメージしていた物とは逸れたものが、
指定した範囲内でも提示される事になります。

そこには「不確実性の面白さ」というのもあるかもしれません。
しかしこのことは、よく考えてみる必要はあると思います。

不確実性そのものと、どのように向き合うか

もしコンセプトアートなのであれば。
不確実性の面白さを取り入れるというのは、
一定程度有効だとは思います。
「コッチの方が良いかもしれない」と考えるのも、
「ブレるべきでない」と元のコンセプトの意義を見直すのも、
推敲としては有意義ではあるでしょう。

しかし場面ごと、何秒かに1度のペースで必要な背景などで、
不確実性の「提案」が起きてしまう事、
提案の選択をさせられる事は、何を意味するでしょうか。

「この場面の背景を、意図に合わせた良い状態にしよう」
ということに割いていた思考が、
「今回はこういう絵が出たけど、これがベストなのかな」
という思考への変化が、プロセスの変化が起きています。

生成で数作品作るくらいでは、この事は大きな影響はないでしょう。
しかし創作を志す者にとって、
この違いを意識せずに何年も続けていった場合には、
将来「何者になるか」に大きな変化を与える違いなのではないか、
とは感じてしまいます。

以上、視聴して気になったデメリット面でした。

留意すべきこと

さいごに。
KALINさんは、生成AIの良い面悪い面に正面から向き合いたい、
そのような真摯な思いから、この作品になったのだと思います。

それ故に、推進派の意見にも規制派の意見にも耳を傾けるという、
双方の間を揺れ動きながら自身の道を模索する、
とても難しい道を行こうとしているのだと思います。

なのでここでは激励として、その道を進むために、
いくつか留意しておいた方が良い事も書いておきます。

先端技術を追う、ということ

先端技術に明るい事を武器としてしまう形になると、
ホットな技術であるほど最先端で「何者か」であり続けるためには、
「地の力」の鍛錬に十分に勤しむ余裕が失われる程の、
情報キャッチアップ競争へと巻き込まれていく事にはなります。

私も懸念を持つ側として情報を追いかける必要がありますが、
どの程度追うかのバランスには、
各々の許容量を客観視し、気を付ける必要があります。

学習許容レベルの差が生まれる背景

悪用はともかく、公共の利益に繋がるという点においては、
無断学習も許容出来るのではないか?
そのように考える事も、自然な事ではあると思います。

しかし今社会で活躍している人達は、
そのスキルでもって「社会で何者か」になる努力を、
何十年と続けてきた人達がいます。

そこに後からやってきて、そのスキルを無断で学習しましたと、
よりにもよって競合市場での利用を黙認しています。
その人個人の絵柄を出力しなかったとしても、
その人達の闘い続けたスキルを使って生み出した技術で、
その人達が活躍している市場へと競合作品を氾濫させる作用があります。
…ありますといいますか、ほぼそのような使われ方しかしていません。

現状、LoRAを使わずともマスターピースと呼ばれる顔など、
生成AI登場以前に人気のあった絵柄へ収束する傾向が強く見て取れます。
人気のあった絵柄とは、人気のあった作家の作風でもあったのです。
そのような「背景」があることには、留意しておく必要があります。

目に見えない、言葉にしない「嫌悪感」の存在

次に、現在の生成AIが抱える問題はあまりに大きなものなので、
利用には技術そのものが悪いイメージを持ち込むことは、
意識しておく必要があります。

「荒れた理由」に書いたような悪用を目撃した経験のある人達は、
現在の生成を利用する行為にはどうしても、
一定の嫌悪感を抱いてしまうものだと思います。
私もあまり個々の事例には反応しませんが、
盲目的な安易な利用には、やはり一定の嫌悪感を感じてしまいます。

また、日本では否定的な報道はあまり見ないのですが、
海外では、あのハリウッドが4か月もストライキでストップする程、
大きな問題と認識され多くの人々が声を上げている事柄です。

そういった人々から、どのような評価を受ける事になってしまうのか。
推進する人々の間では法的な解釈の是非ばかりが注目されますが、
創作はやはり、文化的背景から感情を無視する事は出来ないものです。

感情による世相の自浄作用があるからこそ、
法は厳しく細かいルールを設けていない側面もあります。
その順なので、そこに齟齬が生まれるなら、
法より感情が先に立つのも、自然な流れだと思います。
ハリウッドのストライキの流れなどは、まさにこの流れですね。

この辺りの出来事もよく調べ、
しっかり向き合っていく必要があるでしょう。

また、問題の特性として提供企業が大企業であるため、
推進派は発表に対して「凄い!」などの賛同の声を上げるのは簡単ですが、
企業所属の規制派は、表向きは何も言わずニコニコしていると思います。

そのことを反対の声が少ないと見られがちですが、
それは企業の看板を背負っているため、
個人の一存で大企業の発表に懸念をぶつけるわけにはいかないのです。
その辺りの空気感の見極めが必要となるでしょう。

このように、かなり大きな問題なので、
懸念と利点に同時に向き合っていく道は、厳しいものとなると思います。
心身の健康を損ねないよう、
定期的に問題から離れるなど適切な距離感を保ちつつ、
KALINさんの道に、ご健勝とご多幸がありますことをお祈り申し上げます。

おわりに

何故起きている事の「バックグラウンド」に、
このように注目するのかと言いますと。

私はいわゆる、氷河期世代に含まれます。
今の若者はZ世代、デジタルネイティブとポジティブに呼ばれますが、
我々の世代は「ロストジェネレーション」などと呼ばれたりもします。

当時のメディアは就職に失敗した若者たちを、
ニートだの引きこもりだのと若者側を「社会問題化」し、
今どきの若者は軟弱だなんだと弱者を馬鹿にすることだけに終始して、
背景を考察するなど、問題の本質と向き合う姿勢は見せませんでした。

結果として私は生き残った側ですので同情は必要としていませんが、
このように無理解から生まれる「社会の歪み」、
無関心による「歪みの放置」が、生成問題とは別に、
大きな社会問題をもたらしている根源ではないか、とも考えています。

そのような問題を繰り返し続けないためにも、
なぜそうなのかの背景は、常に考えるようにしていきたいと思います。


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