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【短編小説】梅の憂鬱


僕は家に帰ると、玄関で靴を脱いで座敷の部屋へと向かう。冷たい廊下を抜け切ると、座敷の襖と屏風は開け放たれていた。庭先には松と紅梅が咲き乱れていた。僕は鞄を置いて、適当なところへ座る。手前の庭園は夕刻の日を浴びて沈黙していた。
僕は畳の上へ寝そべり、顔だけは庭園へ向けて、憂鬱っぽく梅の梢と花とを眺めた。梅の花が早春の夕焼けの中でしきりに散っていた。花弁は枯山水の床へと折り畳まれていた。花弁はまるで死のようだった。僕は憂鬱だった。僕は梅を眺めながら人生を考えていた。
「あら、隆様、おかえりなさっていたのですね」
床がしきりに鳴いたと思うと、下女のたきがやってきた。
僕は尚庭園を眺めたままで、
「ああ、今さっき帰ったんだ」
と言った。
「こんなところで、お庭をお眺めあそばしていたんですか」
たきはそう言いながら、僕の投げ出した鞄を片付けている。
「夕陽が差していて、梅や松の梢なんかがあまりに綺麗なもんだったから、つい見ていたんだ。ほら、梅の花があんなに散っている」
僕は庭園を指差す。
「まあ、夕陽を背に流麗ですこと。暮れかかった頃が一番お美しいでしょう」
たきは感嘆して言う。
「ああ、だけど、花の散り際はむしろ人の憂鬱を募らせるんだね」
「まあ、ご憂鬱をお感じあそばしていたんですか」
たきは驚いたように言う。
「ああ…」
僕は力無くいう。僕は枯山水の上に散った梅の花を見つめる。
「釈尊は人間の四苦を生老病死と仰っただろう? これも花が散るそういう危うい死の前の美しさなんだ。夕陽も同じだ。素晴らしい朝が来て、長い昼を超えて、暗闇の夜に落ちてしまうその手前の一瞬の夕刻…」
「隆様、お若いのにご憂鬱をお感じあそばしちゃいけませんよ。隆様はこれからですのに」
「若いから憂鬱なんだ。若いという意識が僕を憂鬱にさせるんだ。僕は若くなかったら憂鬱じゃないだろう」
「老いほど憂鬱なものでござんすよ、隆様。こちらは老いゆくばかりなんですから。そしてすぐ手前に死があるんでごさんすから」
「それはあまりに開けっぴろげな憂鬱で憂鬱とは呼べないんだ。僕は人生に出発する前に、あまりに人生を知り過ぎてしまったんだもの。僕の若さは肉体の若さであって、精神の若さじゃない。僕は既に老いてしまったんだ。僕は既に暮れかかっているんだ」
「何を仰いますか。隆様のご人生はまだ朝日が登ってちょうど昼に差し掛かったようなご時分ではございますまいか」
「夕方を昼と錯誤しているんだ。輝く白昼の陽は実は零落した暮れの夕陽なんだ。ほら、もう夕陽が落ちようとしている」
夕陽が梅の梢にかかり、鈍い光を花弁に注いだ。盛大な音を立てるように梅の花が散った。襖の金玉や金箔がぎらぎらと夕陽に光った。
「おやめあそばして、隆様。どうしてお若い隆様が人生をご知悉あそばすのですか。隆様は人生をご想像上でお知りあそばしているのですよ」
「想像上じゃない。実際に知ったんだ。僕のこの青春の内には、世の人々がその前途に経験するであろう既知が多分に含まれていたんだ。僕は迂闊だった。早熟が徳であると焦燥して、あまりに多くのことを知り過ぎてしまった。無知であることは若いということだったのに。だけどもう無知には戻れないんだ…」


つづく


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