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続・「美しさ」が分かるとは?

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

今年掲げたも目標の一つ。「月に1度は美術館・博物館を訪れる」を達成すべく、上野は国立西洋美術館へ。

企画展「Does the Future Sleep Here? (ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?)」というタイトルで、現代美術家たちが我々に問いかける。

国立西洋美術館──そこは基本的に、遠き異邦の芸術家たちが残した過去の作品郡だけが集っている場です。それらは死者の所産であり、生きているアーティストらのものではありません。この美術館にはしたがって、いわゆる「現代美術」は存在しません。

国立西洋美術館ニュース Zephyros89 より抜粋

以前、何の本だったか忘れてしまったが、環境活動家が美術館の絵画に対してトマトスープを掛ける行為に対して、どことなく共感してしまう的なことが書いてあった。

と言うのも、この世界に存在する全てのものは、いずれ衰退して亡きものになる運命にある。人間もモノも同様である。

それにも関わらず、美術館という場は、過去の遺産を半永久的に存在し続けようしており、自然の摂理に反する施設なのだという。

そう主張されれば、なるほど、美術館にはそういう側面もあるのかとも考えられるト(マトスープなど掛けなくてもね!)。

その点についてはどうこう書く気はないが、美術館にはそのような問いがいくつもあって、現代美術家たちの作品を通じて対話するかのように観ていく。

先月は東京都美術館の「印象派 モネからアメリカへ」を観に行った際は、テーマがわかりやすかった。

西洋美術館に展示されている宗教画や風景画なども、観ただけで私は何を観ているのかが分かりやすい。

しかし、現代美術は捉えるのが難しい。浅学で大変恐縮ですが、私は一体何を観ているのだろうかと思ってしまう。

特に抽象画などを見ると、画家はなぜこの状態を完成と見なしたのだろうかと考えてしまう。

それと同時に、なぜ完成されたものが、美しいものになるのだろうか(語彙力の欠如)。

そう思ったのは、小田原のどかさんの作品郡における、ロダンの「考える人」のブロンズ像が横たわっている(だけ)の作品。

なんというかこれを見たときに、この状態であってもこの像は作品として正しい(という解釈が正しいかも疑問だが)とも思った。身体を丸め込む姿が、胎内の赤子のようだと。

そう解釈できたのは、それだけロダンの「考える人」が素晴らしい作品だからであるとも捉えられるが、私が思ったのは、洗練されたもの、完成されたものと言うのは、やはり人間の都合何だなということ。

この考え自体は、以前読んだ橋本治さんの「人はなぜ『美しい』がわかるのか」筑摩書房 (2002) にある。

美しいものは合理的ではあるが、それこそ、所詮人間の都合に過ぎないともだと。

なぜかと言えば、そこに「合理的」という言葉を登場させること自体が、「人間の都合」だからです。

同著 84頁より抜粋

単純な話、風景画などは、自分が今何を観ているのかが認識しやすい。認識できるからこそ、美しいとも思える。

しかし、今回の現代美術家の作品を通じて、どうしてこの作品に美しさを感じるのだろうかと、どうしてこんなにも魅入られるのだろうかと、考えていた。

その答えは、、残念ながらわからない。だけど、思わず絵の世界に吸い込まれそうな、酔ったような感覚を覚えたとき、私はその絵画が美しいと考えている。

恐らく、その感覚を言語化するには、まだ経験値が足りない。定期的に美術館には訪れるべきだなと、改めて思った次第。

そんな、まだ芸術という海の浅瀬にも入っていない男の感想。それではまた次回!

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