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文学をどの側面から捉えるか。

川口市出身の自称読書家 川口竜也です!

読書会で様々な本好きの方と話していると、なるほど、そういう側面から本を読んでいるのかと、考えさせられることが多い。

先日読書会に参加された方が、逢坂冬馬さんの「同志少女よ、敵を撃て」早川書房を紹介していたのだが、ストーリーよりもその参考文献の多さ、要は歴史や戦争の経緯を知ることができて面白かったという。

私もかつてこの本は読んだことがある。ただどちらかと言うと、なぜ戦争に参加せざるを得なかったのか、狙撃兵として戦う目的、そして終盤に撃った「敵」について、主人公の心情の方が印象に残った。

同じ本を読んでいるはずなのに、捉え方が全然違うなと、面白いと思うポイントが全く異なるなと、改めて考えさせられた感じだった。

でも、そういう側面から本を選び、読んでいる人は結構多い(むしろ、それこそ読書の醍醐味だと叱られそうな気もするが)。

先日違う読書会で、高瀬隼子さんの「おいしいごはんが食べられますように」講談社を紹介した時には、その本は家族揃ってご飯を食べなくなった傾向や、孤食や偏食に関する社会問題を提起しているのではと質問された。

どうだろう。たしかにそういう社会の流れというか、同じように考える人がいるからこそ、作品として成り立っているのかもしれない。

と言うか、おおよその文学は何かしら社会背景から生まれるのだろう。宇佐見りんさんの「推し、燃ゆ」とか、村田沙耶香さんの「コンビニ人間」だって、元を辿ればそう考えるようになった社会であるのだと、考えられなくもない。

その時代や状況に置かれたからこそ、主人公はこう考えるのだと。というか、著者自身が考えているのが適切か。

読書会でお会いする人に限るが、新書やルポを多く読む人もその傾向がある(所感だと男性に多い)。

例えば、ある事件や犯罪に巻き込まれた人について、その闇というか、裏側に潜む事実が気になる感じ。何が彼らをその行動に駆り立てたのか、その根源や背景を知ることが面白いという。

ゆえに、文学や小説を読む際も、なるべく歴史や政治などの教養を深める視点で本を選ぶという人もいる。そこから普遍的な考え方や思想を見出すために。

ただ、文学からそういうことを学ぼうという気概が、私にはない。そもそも知識欲というものが少ない。

文学の中で歴史や時系列の事実が並ぶと、正直読み飛ばしてしまう。別に読まなくてもストーリーは理解できるし、どうせ読んでも忘れる。覚えたところで、って思う。叙述トリックがあるわけでもないのに。

好きな作家のジュール・ヴェルヌだって、どれだけ読み飛ばしているか。「海底二万哩」における各海域の生態系なんて、ほとんど読んでいない。

だから知識欲を満たすために読書ができる人って尊敬する。

疑問に思って、詳しく知るために本に読もうという気持ちになって、実際に紐解くという行動に移せるのは、プロの読書家みたいで凄いと思う。

私も地学とか美術とか、もっと学びたいなという気概はあっても、いざ紐解こうと思うと面倒くさいが勝ってしまう。だから最近は小説ばかりである。

所詮は自称読書家。緻密に系統的に本を読むどころか、四半期ごとに読みたい本がころころ変わる性分。本を読まないことにはうまく時間を使えない人。

ただまぁ、お互いに「面白そうだから」という理由で本を選んでいることには変わらない。

その人が文学や小説をどういう側面から読みたいと考えているかは、その人の読書経験に大きく左右される。

それを無理に変える必要はないが、捉え方として覚えておくことで、本を読むのがちょっと楽しくなるだろう。

今年はもうちょい勉強のために本を読むことも頑張ろう。せめて積読中の本棚の本に一通り目を通すくらいには。それではまた次回!

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