見出し画像

「胡桃割り」永井龍男著(講談社文芸文庫『朝霧・青電車その他』所収):図書館司書の短編小説紹介

 初読は小学生高学年の時だったと思う。国語の授業でこの作品を読み、いい話だなと感じたのを覚えている。
 いつかの教科書に掲載された作品らしいのだけれど、調べてみたところ私の学校で使っていたものには載っていなかった。
 ということは、教師が特別に教材としてこの短編を読ませてくれたのだろう。
 確かに、いかにも教科書的な道徳も引き出せる内容であるし、文章も名文のお手本のように見事で、先へ先へと読ませる構成も他の短編小説の追随を許さぬものがある。
 それでいて説教じみておらず、読後感は暖かに爽やかという稀有な一編だ。
 自分が国語の教師だったならば、生徒にはぜひとも読ませたいと思うだろう。そう考えると、かつての私の国語教師の、教育に対する熱意のようなものが感じられ、今更ながら畏敬と感謝の念が湧いて来る。
 と同時に、数十年後になってようやく教師の意図を読み取れるようになったわけで、即効性でない教育の難しさも感じられるのだった。
 
 時は戦中。それでいて切羽詰まった雰囲気はない。
 登場人物たちは、社会に出てからそれなりに時を積み、円熟した佇まいの男性三人と、そのうちの一人、絵かきとなった男の妻の四人だ。
 男たちは中学以来の友人同士で、二人が絵かきの家へ招かれたところから物語が始まる。
 時節柄、絵かきの男がマドロスパイプをくわえ、珈琲を挽きながら待っており、その後に洋間でくつろぐ際ブランデーに胡桃を合わせるというのだから裕福で、かつ成功した人物であると見ることができる。
 けれど、富裕者にありがちな人間的な臭みを感じさせないのは、この小説の中心にある胡桃にまつわる思い出によるものなのであろうか。
 
 絵かきの母は、彼を出産したのをきっかけにすっかり体が弱まり、病に伏すようになってしまう。
 父は、汽船会社の調査室に勤めていて、書斎と調査旅行にばかり時間を費やしていたが、妻の病が重くなってくるとその看護に専心するようになった。 
 絵かきが小学六年の時、母の病がとみに進み、もしものことを考えなければいけない状況になる。
 けれどその日の二日後には、彼が楽しみにしていた修学旅行が控えていた。
 少年だった彼は、母の容態の悪さと母の死とを結び付けて考えることができなかった。
 姉から、修学旅行への参加を諦めてもらうかもしれない、と父が言っていたと聞かされると、彼は級友との約束や計画が破れる悔しさに涙を溢れさせる。
 その泣き顔を誰にも見せたくなくて、空いていた父の書斎に入り込んだ時、そこに胡桃を盛った皿を見付けた彼は、ナット・クラッカーでその一つを割ろうと試みた。
 けれど胡桃はどうしても割れず、かんしゃくを起こして放り出したナット・クラッカーが胡桃の皿を割ってしまう。
 このことで、彼は自分の部屋の勉強机にもたれて一人で泣くのであった。 
 幸いに、翌日から母の病状は小康を得て、彼は修学旅行に参加することができた。
 賑やかだった友との夜も鎮まってゆき、彼はひとり寝付かれず、母の部屋を眼に浮かべながら、「自分の性質を反省した。その反省は」、彼の「生涯で最初のものだった」という。
 今回この一文を読んだ時、はっとさせられた。長年生きてきて、数多くの失敗もし、恥ずかしいこともし、他者に甚大な迷惑も掛けてきた。
 その度に、自身の言動を反省したり、反省しなかったりというのを繰り返してきた。
 けれど、「自分の性質を反省」したことはあっただろうか。自問してみたが、答えは返って来なかった。きっとないのだ。
 とするとこの絵かきの彼は、小学六年生にして中年の私より己について深い洞察をしていたことになる。
 彼が鋭敏な感性の持ち主であるためだろうか。それとも私があまりに適当に生きてきたためなのか。
 
 夜更けまで中学の受験勉強に勤しむ絵かきの少年が廊下に出ると、父の書斎から胡桃を割る音が聞こえてくる。
 読書をしながら胡桃をつまむのが、看護に疲れた父の憩いの方法だったのだろう。
 皿を割ったことを告白できなかった彼は、その度に工合の悪い思いをし、再び胡桃を割ってみようとはしなかった。「僕には永久に割ることの出来ない堅さと思われたから」と。
 
 試験が終わって間もなく、絵かきの少年の母は不帰の客となった。
 その後、姉の縁談が持ち上がり、挙式は母の一周忌が過ぎてからと話がまとまる。
 姉は、父と彼との二人だけになる家を心許なく思い、母の看護を献身的にしてくれた、母と縁続きである女性に来てもらったらどうかと提案する。
 父は、少年の彼が好いというのであれば、との意見だったが、彼は母が去り、姉が去りとのように、自分を可愛がってくれる人が去って、その代わりに形だけ家を守る人を置くことに反対し、言下に「嫌だ」と答えてしまう。
 一周忌の前夜、久しぶりに親子三人が父の書斎に揃う。父はブランデーを絵かきの彼に、胡桃を姉に用意させた。
 そこで、「お姉さんが嫁に行くと、また当分、ちょっと淋しいな」と口にする父の顔に、彼は老いを見た。
 少年の彼への語り掛けであったが、その中には父の心情も込められていただろう。
 淋しいのは自分ばかりではないのだ。
 「しかし、すぐまた馴れるさ」
 そう続ける父の側で彼は、姉が言った母の遠縁の女性の面影を眼に浮かべる。
 そして、彼女が自分の世話や家事をする役割だけでなく、父にとっても必要な人だとの事実を無意識的に受け止めた。
 そんな自分の心の動きに動揺した彼は、困って胡桃を一つつまみナット・クラッカーに挟んだ。
 すると、決して割ることができないと思っていた胡桃は、「カチンと快い音がして」、「二つに綺麗に割れた」のだった。
 その後、遠縁の女性は彼の「第二の母として、亡い母以上に僕を愛してくれた」という。
 
 心は、ゆっくりと人を成長させていく面もあるだろう。けれど時として、それはふとした瞬間に人を一気に成熟させる面も持っているらしい。
 この物語で、胡桃がカチンと割れる時の一瞬のように。
 少年が青年に成長したひと時を胡桃割りが象徴する。
 文中のカチンという聴こえない音を聴きながら、私にとっての胡桃は何であったか。この短編を読むと、それを振り返らせられるのだ。
 そもそもあったかな、と。

#読書感想文

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?