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子供が家族の中で、親の役割をする必要はない

 先日の藤岡ぴぴさんのnoteで、ああこれ、前にも他の若い方に対して思ったことあるなあということがあったので(そしてつい最近も)、この機会に書きたい。

 彼女のnoteは、ワクワクするような元気が出るものが多い。でも何も、いつも「元気を出そう!」という内容なわけではなく、みずみずしい若い感性を大切にしつつ、でも取り繕ったものがなく、素直で心の内がよく見えて私はとても気に入っている。
 今回の文章では、親のことで、親の立場から言いたいことがあると強く思った。

 最初にも書いたように、他の方にも同じように思うところがあったこと。
 子供は、幾つになっても親の子供だ。当たり前だ。私だってそう。だからこそ、強く訴えたい。親の前では「子供」でいて良い。ということ。
 子供でいて良いというのはどういうことかと言うと、親のための親、という立場になることはない。子供が家族の中で、親の役割をすることはないよということだ。逆転した立場になるのは、子供にとって大変息苦しくしんどいものになっていくだろう。


 親にとって、子供に愚痴を言うというのは、経験上、蜜の味なのである。だって子供側は親のことをできれば突き放したくない、できれば好きだと思いたいという心理が働くから、子供ってどうしても親の愚痴を聞いてあげちゃう。それが自分にとって大して関係のないことで、話題の一部であり、自分の気持ちに余裕があれば聞いたら良いのだけど、子供側が親の愚痴を日常的に聞いてあげる必要はない。特に父親が母親の、母親が父親の愚痴を言うのを聞いてあげる必要はない。

 私も一度だけ息子に、夫の、本当にちょこっとした愚痴を言ったことがある。
 息子は「僕は経験したことがないからわからないけど、結婚したら片目をつぶって暮らすとか聞くじゃない? 僕だってお母さんだって、ダメなところがあるんだし、イヤな所がそこだけだったら良いんじゃないの? 完璧な人間なんていないよ」と、頭でっかちな意見にしても、ぐうの音も出ないことを言われた。じっくり聞いてくれた後にこの言葉。私にとって、これ以上ない対応だったと思う。
 この時、あーいかんなーと思った。愚痴を言うなら、息子には関係のないことのみだ。しかもそんな頻繁に言うものではない。そうでないと一生懸命聞く息子にとって負担になる。そこに親側が甘えてはいけない。

 そりゃ時には友達のような関係になったり、兄弟姉妹のような関係になったり流動的なものもあるけれど、基本的に子供はあくまでも親の子供だ。いくつになったって。親が愚痴だの話し相手だのほしいのだったら、自分で友達を見つけることが望ましい。子供にその役割を背負わせてはいけない。
 だから、子供の側も知っておいてほしい。子供は親の感情を背負うことはない。親の気持ちを推し量ったり、察したりすることも、進んでやってあげる必要はない。親の問題は、あくまでも親の問題。親自身が自分で解決していかなくてはいけない。

 子供は親の前ではどうぞ子供のままで。それは成長するなという意味ではなくて、どれだけ成長しても、親には甘えて良いという意味です。大きくなったって、大人になったなと自分で思ったって、親に対しては少々わがまま言って不機嫌な顔していて良いんです。時にはケンカになっても良いんです。ケンカするのがイヤなら単純に物理的に離れていたら良いんです。時間も空けたら良いんです。突き放していて良いんです。そこに罪悪感も必要ない。感謝や恩を感じていることがあるのはとてもわかる。私だって親の子供だ。だけど、親の立場からしたら、感謝してほしくてやっていることではないし、大きくなってきても何かを期待して接してきているわけでもない。
 子供側からしたら、感謝は感謝としてその気持ちさえ持っていれば良い。親が段々元気に動けなくなってきたら、その時にまた考えて下さい。その時にもっと接しておけばとか後悔したとしても、今からその後悔を心配する必要はないです。そう思った時から心を尽くすことができればきっと大丈夫。
 どうか子供は子供同士の人間関係を築き、自分の世界をつくっていってほしい。自分の力で幸せになって良いのだ。本来、子供が幸せに暮らすことが親の願いなのだから。

 ぴぴさんは、これからも自分の世界を作り、将来、自分の思う「ホームリー」を気負うことなく形にし、大切にしてほしい。
 そして今後、彼女のワクワクする明るい部分も、こういった話も、じっくり読めることを楽しみにしています。


#エッセイ #親子 #愚痴 #親の問題

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