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ちょっとドタバタ、25年前の今日、ニューヨークでの挙式

 先日、銀婚の年だからどう祝おうか迷ったんダ~なんて記事に、思わぬ「おめでとう」のコメントが多くてビックリしてしまった。

 そんな風に祝われるなんて想像もしていなくて、とっても恐縮しつつ嬉しかった。スキもつけていただいた方々も確認しています。皆さん、ありがとうございます。

 コメントのやり取りで過去記事にさかのぼってみたり、書き込んで下さった方の過去の記事を読みに行ったり、若い方の挙式の様子を見に行ったり。
 読んでいるうちに、私も自分のものを記録として残しておこうかなと思って。

 今どきは式も多様化していて、場所にもこだわらず、自身の髪型も、髪に着ける花やティアラ、ベールや持つブーケもきめ細かにオーダーできるみたい。

 その分、自分で考えなければならないだろうけど。選択肢がある自由は、自分で考える責任を伴うのは何だってそう。余裕があるのであれば考えるのは面白いだろうなあ。

 そうなったら私はどこでどんな風に挙げただろう。

 当時は、義父母の要望でニューヨークになったのだ。

 私は札幌で挙げたかったのだけど、しがらみも多くてややこしいと判断されたのかな。やっぱり札幌で挙げてみたかった気持ちは長い間残っていたけど、ニューヨークで挙げたのもふり返ってみれば面白い経験で良かったとやっと思えるようになってきた。

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 前日に、住まいのあるニュージャージーからニューヨークに出て両親と、街のど真ん中にあるショッピングモールで待ち合わせ。スマホなんか持っていない頃だったから、フロアや店などすれ違いが続いてようやく会えると互いに大笑いした。

 父は18年ぶりのニューヨークに感慨深かったらしく、何度も「こんなだったねえ」としみじみくり返していた。

 両親は日本の空港で、ウエディング会社からドレスなど一式を受け取り、ホテルまで運んでくれていた。
 翌朝早くにヘアメイクさんが、両親の泊まる部屋に髪の毛のセットとメイクをしに来てくれる段取り。なので私も両親と同じ部屋に泊まることになった。

 「お世話になりました」とか改まった挨拶もせず。両親はさっさと寝たし、私は浴槽でムダ毛の処理をぬかりなくしたくて夜ふかしになってしまった。それで身体を冷やし、ホテルの部屋の乾燥もあったためか、起きたら喉が痛くて、しばらくすると鼻水ダラダラ。

 風邪ひいちゃったのだー。

 早朝、ヘアメイクさんは来た。元々太い眉を、当時流行っていた細いのにするのは勘弁してほしいという要望など伝えており、結局ほぼ化粧していないも同然の何の変化もない顔が完成。もう少し特別感を作れば良かったと今ちょっと思う。
 ベールに関しては予定していたものと違うと聞かされた。レンタルだから多少変わってしまうようだった。少し残念だったけど今さらごねるわけにもいかない。
 ネックレスは完全に間違えられた。希望のものではなかったけどこれもまた仕方ない。もうある物で良い。どうしようもないもの。

だいぶぼかしてみました。この時は眠気と喉の痛みと戦っている

 メイクされているうちブーケが届いた。

 要望に応えると言われていたけど、当時そんなに選択肢はなかった。私も気質上、えんりょが強く、なければかまわないんですと及び腰になってしまう。だけど、どうしてもの要望だけは伝えておきたい。
 丸い物か、ティアドロップかの二択が多かった頃。どちらも大きなカタマリみたいに形が決まっていて私には大きすぎると感じていた。
 色に関しては白とピンクが主流だったけど、私にとっては甘すぎる気がして、白と緑だけだと私にはシャープすぎる気がした。
 ピンク色は小さい花だけにして、白を基調にオレンジ色を混ぜてほしいとお願いした。緑の葉も少しにして、ごく自然な風にまとめてほしいとか。及び腰になり恐縮しながら何度も微調整をお願いする絶妙に面倒くさい新婦になってしまった。

 ドレスも自分で思い描いていたものが、着て鏡の前に立ってみると貧相だったり大げさだったりして似合わない。意外なデザインがしっくり似合ったので予想外のものとなった。着てみないとわからないものよね。

***

 夫は札幌から、私は兵庫県宝塚からニュージャージーに来て出会った。そのため入籍は、5月に夫が仕事の合間、帰国した時に札幌でバタバタ済ませてしまった。私は宝塚の家の近くのバラ園で「そろそろ役所に行ってるのかな」なんてのんきに、そして少し寂しくその時間を迎えた。

 ビザの関係もあり、私はすぐにはニュージャージーに戻れなかったけど、その分、その数か月をウエディング会社とドレス選びに母と奔走した。

 宗教関わらず誰でもどうぞというニューヨークの教会があり、そこと連携している会社に頼んだ。そしてそこでドレス選びやブーケの注文と共に、化粧の濃さや髪の質や形、手袋の長さ、ベール、首飾り、現地での動き方やカメラマンとの連絡、確認を日々行った。

 7月にニュージャージーに行き、夫の提案によって、夫と夫のルームメイトと暮らしながら、8月から二人で暮らすアパートを探した。
 その間に、挙式に呼ぶ現地の友人や夫の職場の知り合いに招待状を送り、挙式後の小さな食事会をするレストランを探した。

 アパート探しは私のつたなすぎる英語では手に負えなかったけど、レストランへの予約やリクエストは何とかできた。義母にも理不尽なことでめっちゃ感情的に怒られながら、母も泣きながら、他のことで夫ともめながら、頑張ったぞ私。

***

 ヘアメイクが終わり、ドレスを着てブーケを持ってみると、両親が写真の嵐を浴びせてきた。素敵だわー。こっち向いて。もう一枚。バシャバシャ撮っているうちに時間がきて部屋を出る。
 廊下でキョロキョロしてしまう。

 ねえ。

 本当にこの格好でただのホテルの一室を出るのん? すんごい違和感!

 奇妙な気持ちを抱えながらエレベーターを降りる。

 そしてロビー階でエレベーターの扉が開く。
 人がいる。


 ぎゃー――恥ずかしい!!!
 隠れて歩きたいー-!!!!!


 なんて声に出せないから顔も心もスンと無にしてロビーを横切ろうとする。
 するとフロントスタッフたちやベルボーイたちがすれ違う度に「Congratulations!」「Love you!」「beautiful!」などと言うではないか。照れてヘラヘラしてしまうけど、お礼を言いつつだんだん堂々と晴れやかな気持ちになっていくものだな。

 ホテルの前にはストレッチのリムジンが待っていた。とにかく車体がなっがー-い。

これは後から撮ったものだけど、入りきってない。多分人生で一度きりの合計30分にも満たない経験でした。


 内装は後ろの方にワイングラスとかあったけれど、使わないからただの装飾だ。乗る機会はもうないだろうと思うと、たった10分くらいだったけど人生経験の一つとして気分は悪くはなかった。

 教会の前で降りると、道行く人たちが大きな声でお祝いの言葉をかけてくれる。ベビーカー押してる女性まで言ってくれて、それが格別に嬉しかった。

 夫はアパートから車で来て教会で待ち合わせ。既にタキシードを着ていた。タキシードは蝶ネクタイが襟元になく、代わりにシンプルで大きなボタンのある個性的なもの。夫も私も気に入った。
 私のドレス姿に何か反応してくれたっけ。道行く人たちに祝福され過ぎて、夫に何か言われたかなんて忘れてしまったよ。とにかく私は風邪をひいて頭がだいぶモーロ―としかけていたし、次々とこなさなければならないよく知らないスケジュールに必死なのだ。

 教会に入ると、神父さんの説明が始まる。

 式が始まるまでの時間は、カメラマンによる写真タイム。鏡の中の花嫁を写すと幸せになれるとかで撮ってくれる。

 一通り予行演習をし、さて式が始まろうとするちょっと前に、緊張からかトイレに行きたくなった。

 神父さんの奥さまに伝えると「アラ。じゃあドレス持っててあげるからついていくわね」と彼女はとにかくずっと私に付き添ってくれるのだ。

 状況を想像していただきたい。トイレの個室の中、ドレスで中の様子が見えないにしても、真後ろで、ドレス持ちながら待たれているのだ。

 「ごめんなさい、やっぱり出ないです」と苦笑いすると「わかるわよ」と奥さまに笑いながら同情された。

 あきらめて式に臨む。

 父が横に並び、腕を組んだ。
 ドアの前に立つ。
 すると特に心の準備もないままにさっさとドアが開き、軽快にオルガンを弾いている人が見える。

 あっ。
 こんな感じなのね。
 いやあ感慨深くないわ。

 一呼吸つくまもなく前へ促される。とにかく一歩一歩踏みしめよう。

 と思っていたのに父もせっかちに歩き出す。

 ちょ。ちょっと。
 ちょっと待って。

 ちょ待てよ!!


 「片足を前に出すごとにドレスを蹴るようにして歩くのです。そうじゃないとドレスを踏んでしまいますから。それがウエディングドレスで歩く時のコツです」
 なんて教えられていたけど、それどころじゃない!

 私はドレスをガッサンガッサン蹴ったり踏みつけたりしながら必死で父にくらいついた。短い距離だったので何とか追いつけた。

 「ごめん。緊張しちゃった」と後で責める母に父は言う。

 バージンロードを父とかみしめて歩こうと思い描いていた夢とはだいぶ違ったけど、とりあえず「歩いた」。

 そしてそこで、父が私のベールをめくることになっている。

 父の前で少ししゃがむ。

 ちょっと父がグッと来ている。気がした。

 お父さん。

 ツー……。

 あっ。
 心の中で父に呼びかける間もなくすぐにまた鼻水が垂れてきた。

 私は式の間中、手に持つハンカチでは間に合わないスピードで垂れてくる鼻をすすり続け、友人に「泣いてたんかと思った」と後で笑われた。

 でも神父さんの言葉を繰り返しながら、ただの「I do(誓います)」に、心をこめて言ったことが、参列者たちの心を打ったと言ってもらった。そして夫もこの言葉をずっと覚えていてくれることとなった。

 誓いのキスをする前にワインをそれぞれ一口飲むしきたりもあった。
 厳かではりつめた空気の中、夫が飲む前にちょっと上を向いて香りを感じている表情が笑えてきてしまい、下を向いてグッとこらえた。
 私の友人も式の最中、下を向いて笑いをこらえている様子がビデオに残っている。
 笑い上戸な私たちには厳かな場面がとても苦しい。

 友人とは、教会前で爆笑している写真も残っている。何がそんなに笑えたんでしょ。

 両親の目の周りを赤くした顔も写真に残っている。
 式の最中の皆の表情は私たちには見えないから、写真やビデオは後から何度も見返したものだった。

 退場後はレストランへ。

 この時ようやくストレッチリムジンに乗った夫はその内装にほんの少し高揚して楽しんでいた。

 私はショッピングモールで事前に買っておいたワンピースに着替えていた。

 胸とお腹の間に横に切れ込みが入っていて、少し肌が見えるようになっているのだけど、いくつものつなぎ目にちょこちょこ小花がついていた。生まれて初めて自分で2万円くらい出した自分のための服。

 もう色が替わっちゃったけど、小花の部分がピンク色でキュートだった。その後着る機会などまったくないのに、今も手放せずにいる。

 レストランは、数日前に確認したように注文は通っていた。よくぞあの英語と聞き取りで雰囲気を伝え、人数分のコースを準備してもらえたものだ。当時の私を褒めてあげたいよ。
 テーブルをコの字に用意してくれていて、一人ひとりの顔を見て挨拶しながらお喋りしたのはとても楽しい時間だった。スーツやワンピース着ている人もいたけど、研究生もいたから普段着の人たちもいてそういう雰囲気が良かったなあ。

 いわゆる披露宴とは違って、皆と同じテーブルについていたので、私はモリモリ食べた。当然残っているのは、ソシャクしている写真ばかり。最後のデザートにつくコーヒーも逃さず飲んでいる姿が残っている。
 
 双方の両親が支払いを済ませてくれて、私の両親は荷物をたくさん運んで付き添い続けてくれた。

 ホテルに戻ってから、両親にきちんと挨拶しよう、夫にもしてもらおうと思っていたのに、私ったらすっかり忘れてしまい、二人でただゴキゲンで帰ってしまった。この後しばらく両親にモヤモヤされる。ごめん、私のいい加減なところが出た。

 当時は気持ちが精一杯すぎてあれもこれも悔やまれるところもあるのだけど、でもその日だけは間違いなく華やかな気分で浮かれたって良いって思うのよ。若いんだし。めでたいんだし。

 当事者はみんなえんりょなくふわふわしたら良いのだ。

 誰にでもおめでとうって言われるのが良い。

 どんな思いがあろうとも、晴れやかでよろこばしい日なのだ。翌日からちゃんと現実が待っていたりするのだし。

 私は風邪ひいちゃったけどね。


 25年前のその時から今まで、夫が言ってくれたように、いっぱいケンカしてもその度に仲直りしたね。
 嬉しいことも楽しいことも悲しいことも腹の立つことも面白いこともたくさん分かち合ったよね。
 すべてが順調な日々でもないけれど、これからも穏やかに、できるだけ楽しいと思えることも増やしていこうね。

※その後、15年ほど、神父さん夫婦とホリデーカードのやり取りが続いた。
 10年過ぎた辺りから、トイレにまで付き添って下さった奥さまが認知症になったと神父さんから詳しい報告があり、それからさらに5年ほど経った頃に奥さまを亡くした報告があった。
 映画「マイ・インターン」では葬儀場として使われていた教会。今、どんな風にどなたが使っておられるのだろう。こじんまりとしたとっても可愛い教会。



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結婚式の思い出

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