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母の月だから、を口実に

 母の日に、母についての文を書いて載せられたら良いなあ~と思っていたのに、「載せられたら良いなあ~」程度なもんだから延び延びになってしまい。

 「母の月」とも言われている5月もそろそろ終わってしまいそう!

 もうタイミング逃しちゃったし「またで良いか」と本当は思ってしまっていたけど。
 最近、親についての内容の記事を幾つも目にする機会があり、泣きながら読む羽目に。

 やっぱり双方が元気な今のうちに書いておきたいなあとの思いを強くした。父のことはよく書いているから、母についてもね。

 父が退職して、祖母も亡くなって、何年か経つけど、少し母の様子が落ち着いたように見える。


 小さい頃。お母さんは厳しくて怖くて、私のこと好きじゃないんだろうってずっと思い込んでいた。
 私の感じ方は過剰のようだったし、気持ちが顔に出ると「そんな風にしない」って言われて、勉強もピアノも「何でできないの」って言われる。お兄ちゃんの褒められる部分は、私にはないものばかりな気がした。
 「かせみは可愛いから良いじゃない」と言われていたけど「可愛い」なんて、そりゃ家族の中で一番ちっちゃいからだ。って幼心に気付いていたし、いつまでも可愛いだけなんてつまらないと思っていた。他に取り柄がなくて、気が弱くて、言い返せなくて、意気地がなくて、面白くなくて。

 でも当時の楽しかった思い出もある。
 雷が鳴ったら、お母さんの太ももにしがみつきっぱなしで、「片方の足だけ重たくて動けない」って、料理作りながら可笑しそうに笑っていたよね。「いつ怖くなくなるの?」って聞いたら「大人になっても怖いのよー」っていつかニコニコ教えてくれた。アイロンあてたり靴磨いたりするのが羨ましくて並んで真似したら、お母さんも楽しそうだった。まだ小さかったけど、お母さんのマニキュアを塗りたいって言ったら塗らせてくれたし、縫物をしたいって言ったら教えてくれたよね。
 お母さんがテニスやスパンコールのレッスン、車の教習に行っている時、私がいるのを確認してはニコニコ笑顔を向けてくれた。

 イジメられた時も、幼稚園の先生に下手な英語で怒ってくれた。翌日は一緒に幼稚園に行ったよね。

 なのに帰国してからもまだ私はお母さんに好かれていないんだと思ってた。

 勉強がお兄ちゃんみたいにできなくて、話しても面白くなくて、何をやっても「普通」で。時々わがままで甘えん坊って言われて。転校したら結局イジメられて。それでも言い返せない私で。そこでは友達がなかなかできなくて。

 でも水泳もピアノも私が「やりたい」って言ったら習わせてくれて、「やめたい」って言ったら、やめさせてくれた。何度それを繰り返しても、「やりたいなら」「やめたいなら」と応じてくれた。「かせみは好き嫌いハッキリしているところが気持ちいい」と言ってくれていたから、今も自分の判断にそれほど迷いがないんだと思っているよ。

 中学の受験勉強していて重い気管支炎になった時。塾の先生に「やめないで」って言われたけど、私の身体を思ってやめさせて、お母さんが社会や理科の暗記につきあってくれたね。
 勉強終わってから寝る前のストレッチがいつも可笑しかった。お母さんは体がかたくて、できないポーズが多くて。勉強の時は怒られたり泣いたりしたけど、終わったら大笑いしながらストレッチしたね。

 中学や高校の間は、お弁当じゃなくてパンを買うとか食堂で買うとか憧れたけど、でも毎日作るのがどれだけ大変だったか今の私ならわかる。私は息子クンにそこまでできなかったよ。今もオットには気まぐれだし、体調で作らない日も多い。お母さんの作るお弁当は決まったおかずだったのは覚えているけど、私は好きだったんだよね。いつもお弁当の時間が楽しみだった。まあお腹の減る年齢だったからかもしれないけどね。

 家から1時間半くらいの通学は大変だったけど、運動会や文化祭に「来て」って言ったら必ず足を運んでいたね。目につく色々があっただろうに帰宅後もイヤなことは何一つ言わなかった。いつも楽しんだ感想を教えてくれたよね。

 でも当時はおじいちゃんやおばあちゃんが同居だったから、お母さんにも色んな感情があったんだろうね。
 ニュージャージーや帰国後マンションに住んでいた頃より、ずっと笑顔が減って、機嫌の悪い時間が多かった。
 私たちは食卓の席で、おじいちゃんの、人に対する批判やおばあちゃんとのケンカを聞かなくちゃいけなかった。おばあちゃんも人の噂とか外見とかばかり言って、楽しくなかったよね。
 それでも私がその場にいない時の二人の様子に関しては、お母さんは態度や表情には出ていたものの、そのやり取りや雰囲気をわざわざ伝えないようにはしていたんだよね。

 おじいちゃんおばあちゃんのいないリビングや二階で、お兄ちゃんと映画をよく一緒に観たね。私が観たい映画も一緒に観てくれたし、好きな漫画も一緒に読んでくれた。

 私が卒業後にニュージャージーに住みたいと言い出した時も、仕事を続けたり変わったりする時も、「そうしたら良いと思うわよ」といつも賛成して、心配以外は文句言わないでいてくれたね。

 オットとなる彼を紹介した時も「かせみは恋愛結婚で、互いの中身を見ようとしていて嬉しい」って言うのが私にも嬉しかった。私がお義母さんに理不尽な怒られ方した時も、泣きながらオットに「かせみをよろしくお願いします」って心配してくれたね。

 息子クンができた時も狭い部屋に手伝いに来てくれてありがとう。
 アウェイな空気だっただろうに、息子クンを可愛がって、家事をしてくれて心強かった。

 息子クンができたことで私の遅すぎる反抗期みたいなのが来たね。次々と、ため込んでいた幼少期からの不満だとかお兄ちゃんからのトラウマだとかをぶつけたら、面倒くさいって怒鳴られちゃった。私の息子クンに対する愛情と、お母さんの私に対する愛情の表現方法が全然違うように思えて絶望的な気分になった。
 その頃には、おばあちゃんのことや親戚のことで振り回されているお母さんを見ているのもしんどくていやだった。機嫌も態度も言葉や意見も、周りの気持ちに左右されているとわかる時があったし、私についての噂話をどこまでされているんだろうって気持ちになるのがしんどかった。

 でも気が付いたんだ。「私はお母さんと違うんだから!」って腹を立てていたけど、お母さんだって私とは違うんだ。
 それがわかってから、段々距離感つかめてきた。
 嫌なことを言ってくる時や、私を無意識にコントロールしたい瞬間も、わかるようになってくると、線引きできるようになった。それが「親」だというのも自分を見ていてわかるようになっていった。だからそういう時は私はお母さんの気持ちを察しようとせずに、自分の思うようにすれば良いんだともわかってきた。息子クンを見ていてそう思う。
 おばあちゃんの影響を受けた気分的なものが態度や表情に出ている時も、きっとそうなんだってわかると、私の問題ではないんだと思えるようになっていった。

 気持ちが落ち着くまで10年近くかかってしまったけど、あの頃にぶつかって私にとっては良かったよ。お母さんとしては「どうしたのかしら」くらいだったかもしれないけど。でもそのまま疎遠になっていくところだったのを、ほど良い距離感つかめるようになって良かった。

 その後、HSP(highly sensitive person)の特性について知った時、「私、これだと思う」とおそるおそる伝えてみた。
 「あれもこれも気にして考え過ぎ。過剰反応するし、過敏で神経質。人と言い合えない。大勢の人と関わるのがストレスで社交性に欠ける。何でも真剣に考えてしまう」そんな私を改めて指摘されるんじゃないかと、ためらったけど、こういうタイプが一定数いるんだよと知らせたかった。
 そうしたら、「まるでかせみのことを知っている人が書いているみたいでびっくりするね。物語の主人公みたい! すごいね!」と感激しているから、嬉しかった。
 「改めて、かせみとお母さんとは違うなあと思った」と伝えてくれて、HSPな部分を批判せず受け止めてくれるようになったよね。

 その後noteを始めると読んでくれたけど、内容によっては時々心配するから、「お母さんに向けての私とは違うかもしれないけど、私は友達の前ではこんななの。お母さんのためには書いていない」って伝えたよね。それで私の書きたい気持ちが萎縮するのがいやだったから、心配し過ぎるなら読まなくて良いから。って。
 でもある日、「かせみの文読んでたら、かせみのことがもっと良いなあと思うようになった」と言ってきて嬉しかった。

 最近は、昔の互いの気持ちのすれ違いも平気で話せるようになったね。
 もしかしたらお母さんは自分の発言や昔の表現の仕方を忘れてしまったのかもしれない。
 私もお母さんからの言葉の受け止め方に思い込みがあったのかもしれない。

 真実なんてわからないよね。だってお互いの気の持ち方だろうからね。
 
 だけど息子クンに、私の子育てについて指摘されたりうっとうしいって暗に言われたりして、ようやくお母さんの私への思いがわかるようになってきたんだ。

 私の意志決定をできるだけ尊重してくれていた。
 だって、息子クンをできるだけ尊重してきたつもりなのに、どこか押しつけがましい自分がいるとも気が付いたもん。
 そして自分が20歳前後、どんな風に対応してもらっていたかを思い出して。

 今だって、私が興味を持って何かを始めたり、何かにハマって追求したりしている時、お母さんはいつも「楽しそうで良いね!」って応援してくれる。心配な気持ちも言ってくるけど、止めたりとかしない。
 noteでのあれこれで落ち込んでも「かせみの好きなように書けば良いじゃないの」「かせみの文章にはかせみにしかない個性があって、その個性っぷりが良いのよ」って励ましてくれる。


 本当は苦い思い出や楽しい思い出、まだまだ書いていないこともたくさんある。お母さんと気持ちを切り離さなきゃと気が付いた時の葛藤はけっこう大変だった。

 それでも全体を通して思うのは、お母さんの、よく笑って明るいところにどれだけ救われているだろうって。

 幼い頃はお母さんの笑った顔をよく見上げて、大きくなったら向かいに座って、お母さんが笑っているかを確認して安心した。
 今も気持ちがふさぎがちな時に、お母さんと喋ると元気になる。

 お母さんはとにかくよく笑う。多分、だから私もよく笑う。
 お母さんは、全然HSPじゃないわあと自分で言っているように、私とは気質的に細やかな部分が全然違う。お母さんは圧倒的に楽観的で、すぐに落ち込む私の気持ちを自然に変えてくれる。でもお母さんが気にするところを私は気にしていなかったりするから面白いね。

 最近はまた新しい住まいへと、気持ちはすっかりそちらに向かっていて生き生きと楽しそう。
 裁縫は一段落したみたいだけど、また編み物も復活したいなあ~なんて思い描いているのね。編み物も得意だから、小物から大物までたくさん作って楽しめると良いね。

 30歳近く年上のお母さんの生き方や暮らし方が、そのまま私を導いてくれている。同じじゃなくたって、私もそんな風に歳を重ねていけたらと思っているよ。
 明るく。子供の前ではできればで良いから楽観的に。だよね。きっと。

 「年を取ったら、もうどうだって良いやって思うことだらけ。段々あらゆることに構わなくなっちゃう。でもね、努力してちょっと頑張ってでも好奇心を持ち続けた方が良いんだと思う」
 これが最近の中では一番良いなと思ったお母さんの言葉。
 実感こもってたもん。

 おばあちゃんが、娘であるお母さんをわからなくなって「お手伝いさん」とか「お姉さん」とか言い出した頃に「私だってそうならないとは限らないよ。かせみのこと、そうやってわからなくなるかもよ」って言って顔を見合わせた時、猛烈に悲しさがこみ上げてきた。
 でもお互い歳取ったらどうなるかなんてわからないものね。

 だからお互いに元気で覚えているうちに、こんなこと、書いておこうって思ったんだ。

 お母さんは照れ屋でこういうのはあまり好きじゃないかもしれないけどね。

 だけどせっかく母の月だし。
 周りには親を亡くしたり、子供のことを忘れていたり、自分の余命に思いを馳せていたり、関係がうまくいっていなかったりする人もいるから。時間は有限だと最近つくづく思い知らされているから。

 私は自分の親がお父さんとお母さんで良かったよ。今の時点で私は恵まれていると言われる立場なのだろうね。
 いつもたくさんお喋りして聞いてくれてありがとう。


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読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。