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第5回 清和天皇の晩年 〜フォークロアから読み解く日本人の災害感〜

川瀬流水です。平安前期の清和天皇は、9歳即位後の18年の在位の間に、富士山噴火、巨大地震、国家を揺るがす政変など、あらゆる災異に見舞われました。在位中は、多くの女性を愛されたことでも知られ、皇子の多くは臣籍降下されて、のちの清和源氏を形成することになりますが、876(貞観18)年27歳で突如退位、第1皇子の貞明親王、後の陽成天皇(ようぜい・てんのう)に譲位されました。

自らは3年後の879(元慶〈がんぎょう〉3)年仏門に入られました。仏門の名は「素真」。

その後僅かな供とともに畿内巡幸の旅に出られたのち、かねてより終焉の地と定めておられた平安京西北、愛宕山麓の水尾(みずのお)に入られて、山中で絶食を伴う厳しい仏道修行を重ねるなかで、880(元慶4)年粟田院(あわたいん)で死去されました。行年31歳。火葬の後、水尾に埋葬されましたが、薄葬の遺詔に従って山陵は起こされませんでした。

譲位後の足跡のとらえ方については、諸説あると思いますが、貞観三陸地震後の詔にある「憮然として媿ぢ懼れ、責深く予に在り」《訓読文で示す》の文言を思い起こすとき、私には、清和天皇が度重なる災異を自らの行いに対する天の評価ととらえ、為政者として自らに「けじめ」をつけようとしたのではないかと思えてなりません。

次回は、今回のシリーズの最後として、災異思想という視点から、日本人の災害感について考えてみたいと思います。

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