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オリジナリティへのごかい ⑤最初

 オリジナリティへの信奉は根深い
 それを発揮できる人、それを認められた人、それに自信を持てる人は神に等しい扱いを受ける。なぜならそれはその人自身への社会的承認だからだ。生きるにおいて、それほど名誉なこともないだろう。周囲の人々に、そして知らない人にすら受け入れられるということを喜ばない者はいないし、羨まない者もいないだろう。
 オリジナリティという言葉がそのような崇高さを帯びる時、けれど私達は当然にそれへの評価を誤る。それを崇高なもの、神に等しいものと思うにつけ、オリジナリティは不当に神秘的になる。つまりそれは隠され、特別なものとなり、発揮できる人間に特権を与えてしまう

 実際のところ、そのような扱いはオリジナリティには必要がない。というよりもオリジナリティは、そんなに特別なものではない。なぜならそれは私達が紡ぐ表現行為であり、そうして私達の目に触れる表現結果でしかないからだ。
 でも、オリジナリティへの信奉は本当に根深い。それは往々にして間違いや行き過ぎの領域にまで発展する。即ち、本来はオリジナリティがあるからこそ、その人が信奉されるはずだった。しかし次第にそれはオリジナリティそのものへの信奉へと、信仰へとすり替わって行った。
 だからオリジナリティは、特別なものになってしまうのだ。実際のところには関わりなく、少なくともそう思ってしまうし、そう思わされてしまう。 そのために、もし、あなたの持つオリジナリティが認められたとして、あなたはそれを最大限まであなたのものだと信じてしまうことになる。そのオリジナリティは本当に特別なもので、あなただけのもので、あなただけにしかできないオリジナリティなのだと。
 オリジナリティには2つと同じものはない特別なもの──そういった過度な神格化は、正しくない。オリジナリティは私達の誰もが持つ自分自身であって、そもそも比較すらできないからだ。優劣はつけられないし、つけてはいけない。だからそれは独立している。後も先もない。いつそれらが生まれたかに関わらず、それらはそれらとして存在している。

 だからこそ、オリジナリティは「被る」のである。似たようなものがごまんとある。唯一無二などあり得ない。そんな特別性も神秘性もない。それは誰にとっても発揮できるものであり、表現できるものであり、同じであり得るものだ。ただ、そうであったとしても、オリジナリティはそれを発揮するそれぞれの人固有のものである。それを前提としつつ、あなたのオリジナリティは最初ではない可能性があることを甘受しなければならない。
 そういった序列にとらわれている内は、あなたは本当にあなた自身のオリジナリティを発揮できたとは言えないし、乗りこなせているとは言えない。あなたがあなた自身を信じられることで、そのオリジナリティはより本当のものになる。オリジナリティは独自だが、唯一ではない
 それがオリジナリティへの誤解を解く、五戒の内の1つである。

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