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中庭と感覚と、教室と負けず嫌い

 どちらかを選べと言われて、正しく選べたことはあっただろうか。
 それが個人的な問題とか、善悪、プラスマイナス、増減などという方向性のはっきり違うものであったなら自信はある。
 けれどそうでないものの中から選べと言われたとき、果たして、自分の納得のいく答えが出たためしがない。
 この色とあっちの色どちらがいいとか、今日のご飯とか、寝る時の身体の向きとか、努力と才能どちらが優れているか、とか。

 「碧、ここにいたんだ」
 学校の中庭には、鯉が飼われている池がある。その池の側には重厚なベンチがあって、昼休みにはよく、仲の良い友達とか付き合っている男女とかが、一緒に食事を摂っている。
 「健……もうお昼?」
 ベンチに座る少女が、先ほどまで熱心に読みふけっていた本を閉じた。それから長い前髪をかき分けて、少年を見上げる。その「碧」という名前の通り、新緑の中の湖面のような緑色の瞳が日光を反射して光る。健と呼ばれた少年はため息をついて、大げさに首を振った。
 「違う、まだ朝。1限目からサボるからどこにいるかと思ったら……」
 見れば、健の制服は予定にない激しい運動のせいで、明らかによれていた。碧は好きな作家の新刊を見つけたとのように目を大きくして、健のスラックスの裾に手を伸ばした。
 「わわっ、な、なに……?」
 「……ひっつき虫。ついてた」
 碧は愛おしそうに、健の制服についていた植物を見つめる。それは草むらを歩いているときなどにいつの間にか人間に便乗し、一緒についてきてしまう旅好きの植物だった。
 「あ、ありがとう……じゃなくて!」
 健は、碧の手をつかんで引っ張り上げる。その手は太陽に照らされ続けたかのように温かく、この、秋の中庭の気温を疑わせるほどだった。
 手を握られた碧は驚いたような、低い声を上げる。少女をベンチから立たせるには強引なやり方だったが、こうでもしないと碧はここから動かないことを、健はわかっていた。
 実際、先ほどから健がこんなに咎めた態度をとっているのに、碧は本を閉じただけで、中庭を出ようという素振りを見せないのだから。
 「イヤ」
 「じゃなくて、ダメだよ! 後藤先生が鬼だよ!」
 「おに……?」
 「あ、えっと……鬼っていうのは――」
 「――鬼みたいに怒ってるってこと。てか、そういうの察せるでしょ、フツー」
 健と碧が腕を引っ張りあう中庭に、もう1人の少女が現れた。校則が服を着て歩いているような、きっちりとした髪型、制服の着方、スカート丈、凛とした表情の女の子だった。
 「律子! え、え……? 今2時限目の途中だよね? 抜け出してきたの?」
 「ちゃんと先生に許可取って来たわよ。どこかの2人とは違って、アタシは生徒会だもの」
 「……私だって帰宅部……」
 「関・係・ないでしょ! 健も、なに一緒になってサボってるのよ」
 律子という少女の燃えるような眼――実際、少女の瞳は鮮やかな南国の花のように赤かった――に、健は少したじろいだ。その拍子に手の力が緩み、碧はストンと、再びベンチへと着地した。碧はまたしても、小さく、低い唸り声をあげる。
 「あっ、ごめん碧」
 「ううん、大丈夫」
 「……健、いいから行くわよ。こんな子放っといて。いくら叱られてもやめないんだから」
 健の空いた手を、今度は律子が握る。碧とは違う、水にでもずっと浸していたかのようなひんやりとした感触に、少年は肩を震わせた。
 ずんずんと歩いて行ってしまう律子の手を振りほどくことができないまま、健は碧のほうを見る。碧はやはり、2時限目以降も教室に戻る気はないようだった。
 「また、放課後。屋上ね」
 そんなふうに言ってのんきに笑顔を見せる碧に、健は戸惑いつつも手を振った。

放課後。
「それで、まだ碧さんは中庭に?」
じっと苛立ったような視線を健と律子に向けるのは、この頃誰かを叱ることが増え、「鬼」と陰で呼ばれるようになった後藤先生だった。
 丸眼鏡で小太り、背も低く柔和そうに見られがちだが、担当する美術部の指導は厳しく、泣き出す子もいるくらいだ。その熱心な指導が功を奏したかはわからないが、後藤先生の言うことには、今や学校の誰もが一目置くようになっている。
 「碧は……多分、もう学校にいないと思います。いつも放課後、待ち合わせの場所があるんです」
 「そう、なら明日は必ず職員室に連れてきなさい。朝、必ずね」
 「えと、それは――」
 有無を言わさない教師の言葉に、健が口を挟みかける。
 「わかりました。必ず」
 「ちょ、律子……!?」
 「いいから! それでは加藤先生、さようなら」
 中庭のときのようにずんずん歩いて行ってしまう律子。健は慌てて先生にお辞儀をすると、背中越しでも怒りの見える律子を追いかけた。

 「まったく、信じられないわ! とうとう丸1日休むなんて!」
 グラウンドを横切りながら、律子が気炎を吐く。健はそれを隣でなだめながら、碧の待ついつもの場所へと向かう。もちろん、律子もそこへ向かうはずだ。だが今日は直接、碧に文句を言うつもりなのだろう。
 今までも碧が授業を休むということはあったが、その度に律子は、碧には言っても無駄だからと、その祖父母――碧は祖父母の家で暮らしている――にまで掛け合って、どうにか落ちこぼれないようにフォローしてくれていたのだ……と、健は考えていた。

 目的地は、学校から十分程度歩いたところにある、4階建ての廃ビルの屋上だった。
 そこはほんの数年前まで、児童会館や保育所などをまとめた、地元の子供たちのための場所だったのだが、少子化によって継続が困難となって近々取り壊されることが決まっている。
 カンカンと階段を上っていく音は存外大きく、屋上にいる碧には聞こえているはずだった。4階から更に上へ行くための階段部分には鉄格子がはめ込まれていて、やはり、碧が先に来ていたらしく南京錠のチェーンが外れていた。
 「碧! もうダメ、今日という今日は!」
 屋上への扉を音が出るくらいに開け放って、律子は視界にはいない碧に向かって言い放った。コンクリートがところどころ剥がれ、もう壊されるのを待つだけのその場所には、ここからの眺めを遮断するように、高い高い金網がぐるりと囲っている。
 「いない……?」
 「そんなわけないでしょ。あの子の居場所は、家かここしかないんだから」
 その言い方に、健ははチクリとした。それは傷ついたとか、悲しんだとか、怒ったとか、碧が可哀そうだとかそういう意味ではなく、単に、律子の怒気を肌で感じたように思ったからだ。
 碧の境遇を知っている律子なら。まして、同じような目に遭ったことのある彼女なら、普段はこんな言い方はするはずはなかった。
 「え、ええっと……隠れてるのかな」
 健は自分でもわかるくらいわざとらしく、屋上をぐるりと見まわす。
 まだ、夕焼けには少し早く、影になるようなところはそう多くない。パキパキとコンクリートをはじけさせながら、2人は屋上を歩き回った。
 「……いない」
 「そうだね……」
 だが、碧の姿はやはりなかった。まさかと思い金網越しにビルの真下や周辺に目を凝らすも、それらしい姿はない。
 律子は深くため息をついて、ポケットから携帯電話を取り出した――「――あ、健達、来てた」
「碧! 下にいたの?」
律子が驚きと、苛立ちの混じった声を上げる。碧はコクンと頷くと、のどが渇いたから3階に水を汲みに行っていたのだと話した。
 「……あ、まだ水道生きてるんだっけ」
 「うん、なんでかわからないけど、3階の給湯室だけ出るの」
 「っ、そんなことより! 碧、わかってる? このままだといいかげん退学になるかもしれないのよ?」
 「……? なんで?」
 碧は床にゆっくりコップを置くと、本当にわかっていないような、不思議そうな顔をした。
 「授業に出てないから。前もお爺ちゃん達から聞いたと思うけど、学校には出席とテストの点どっちも必要なの。あなたは、学校に毎日来て、教室の自分の席に座ってなきゃいけないの」
 「んむ……」
 碧は憶えていなさそうな顔をしている。その瞳が失くしものを探し回るかのように揺れた。そして、ふと思いついたように口を開く。
 「でも、私は行ってるよ。中庭とか……こことか。ちゃんと来てるし、ベンチにも座ってるのに、それは教室じゃないとダメなの?」
 健はなるほど、と思った。碧にとって、勉強の時間というのは、他の人と比べると物凄く意味のない時間だ。だから、教室とこの屋上との間に、違いが見いだせないのだ。
 碧はこのように変わった感性を持っているが、だからこそ、天才だった。こんな調子なのにテストはいつも満点だし、極まれに授業に出ているとき、教師に狙い撃ちされてもスラスラと答える。
 そもそも、碧が未だに退学になっていないのは、そういう出来事があったからだ。学校としても、無責任に放逐はできないと考えているのだろう。
 そんな碧の能力を、はじめはなんでだろうと思っていた健と律子だったが、類まれなる才能を見せつけられるたび、もうそういうものだと考えないことにしていた。
 「ここにいつも来てるから、ですって……?」
碧の態度に、律子はもう我慢がならないというふうで、拳をぎゅっと握りしめた。健はそれをハラハラしてみていたが、律子はその拳を隠すように、もう片方の手で覆った。
 「……そりゃ、あんたは毎日毎日飽きずにここ来ててもいいのかもしれないけど、私も健も違うの。勉強しなきゃいけない。毎日、必死に、ちゃんと!」
 「ん、と……」
 律子の剣幕に、碧は少し、自分の発言に慎重になろうと思い直したようだった。何かを言いかけたが、口をつぐむ。
 これは、今までも何度か、碧と律子の間で起こっている問題の1つだった。
 子供の頃、碧と律子の関係は逆だった。なんでも感覚的にできる碧を真似ようとして、律子がいつも無茶をするのだ。川に落ちたこともあったし、食べきれないほどのお菓子を買ったこともある。親の書斎から、難しくて分厚い本を全部出して、3人で叱られたこともあった。
 このビルがかつて児童会館だったころ、ハロウィンの出し物で、碧が画用紙やセロファンでとても綺麗な衣装を作ったのに、律子はどうしようもない紙クズしか作れずに、悔しくて大泣きしたこともあった。
 2人には、そういう、大きくて深い隔たりがあり、けれど、今の今までずっと一緒だった。

 2人の少女は、太陽が沈み始める中、風にさらされながら見つめあっていた。

 健は、少女達の横顔――夕日に照らされ、まるでオレンジ色のセロファンに包まれたかのような、それでいてそれぞれの瞳は、独特に緑と赤に煌めいている――を見て、かけるべき言葉を失ってしまったように思えた。
 健の立ち位置は、けれど、いつもそのようなものだと、彼は自分自身でも思っていた。
 好き放題しているように思えて、いつもなにか不安を抱えているような碧。
 いつも要領よく頑張ってやりたいことを貫き通すのに、ある一瞬では自信のなさが垣間見える律子。
 言い合いは絶対に平行線だと、健は思った。
 けれど、相いれないならそれで良いとも思っていた。
 だから別に、自分に何か意見を求められたとしても、どちらかの、どちらかだけの味方はしないようにと、それだけは心に決めていた。

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