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私達は油断すると、人生を形式化する誘惑にかられてしまう。

 私達は油断すると、人生を形式化する誘惑にかられてしまう。また、形式化というのは便利だから、一度そうしてしまうと元に戻す気がなくなってしまう。そして形式化にとらわれると、私達はそれ以外の曖昧なものとか、考えなければいけないものを面倒くさがるようになっていく。
 形式化することは至極簡単である。それはそのまま、物事を形式に当てはめること、物事を手に入れたパターンとして理解することである。そしてそれ以外を無視していくことによって、形式化というものは完成する。

 究極的に形式化した人々、そしてコミュニティは、形式化していないものを認めず、受け入れることもない。そこでは形式がルールであり、目的は形式化することである。形式化されていないものは必ず、形式化されてはじめて考慮される。

 形式化を言い換えるのなら、それはルールを絶対視することである。加えてそのルールは、基本的に上から与えられるものである。上とはどこか? そんなことはどうでもいい。大切なのはそのルールがあることであり、それによって行動を形式化できることだから。
 そのようにして物事を形式に従って処理していくことが、当然となる。そのような生き方が、まさに形式化された人生だ。私達はそれを、ともすれば求めてやまないことになるが、別にそれに恋い焦がれているほどではない。でも、形式化することの何が魅力かと言えば、それが「楽」だという点である。
 形式化に際して、何かを考えることはほぼない。なにせそのルールは上から降ってくるのだし、後はそれが「そうなのか」「そうでないのか」を当てはめていくだけだからだ。そういう仕事はたくさんある。当人が楽だと思っているかは別にして。
 しかし、人生や生き方に関して、それを形式化することはまた全然別だ。自分自身の判断基準を形式化させること。なんら複雑なことを考えず、どこかからもらったルールというもので人生を律すること。仕事ではなく人生をそうできる人は、もはや形式化に取り憑かれているとすら言える。

 それは自由とは違うが、とにかく楽である。なにせ自己責任感がない。自分の人生だが、自分のせいにならない。ある意味で、束縛からは解放されている。人生というものの意味を考えたり、使命を覚えたり、変化に対応したりといったこととは極力離れて過ごす。
 ただ淡々と形式に則って生きていくこと。
 それが1つの憧れになる事実が存在する。たとえそうでないほうが豊かであっても。「挑戦」に価値があると言われても。人生を形式化することに腐心する人々がいる。
 形式化することの楽さを求めて

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