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ルーチン化すること。守りに入ること。

ルーチン化とは、行動を最適化し、余計な労力をかけないことである。
しかし守りに入るとは、そのルーチン化の意識が、ルーチン化している行動の中身にも及んでしまうことを意味する。

特に、創造力を発揮しなければならないような行動において、これは最悪である。

なぜなら、ルーチン化とは、「余計な」部分を削ぎ落とすやり方だからだ。つまりそれは、「特殊な」ものをならして平坦にしてしまうことを意味する。
創造力を発揮するとは、まさにこの他とは違う「特殊な」もの、「余計な」部分というのを尖らせることだから、ルーチン化とは相性が悪い。

しかし一方で、ある「特殊な」なにかで成果を得たとき、それをその形のまま保存したいという衝動に駆られる。
これは、クリエイティブなもののみならず、そういった成果物ではない、なんらかの方法論、作戦、生き方・処世術、他人との接し方などなど、あらゆるものにあてはまる。

つまりその「特殊」とは、文字通りの意味ではなくて、「独自の」とか「そのときの」のような、まだセオリーを見つけていなかった際に実行したり出力したりしたなにかだ。

そのなにかの威力は強い。

なにせ、そういった類のもので私達は成功や成果を収めることができるからだ。特殊なものへの世の中の歓迎は、思うよりも大きい

だが一方で私たちは、それを保存して次も使いたくなってしまうのだ。
そのとき、それが創造性の強いものであるほど、「守りに入る」感もまた強くなってしまう。
最初の成功をより簡単なものにしようと最適化するーー即ち、ルーチン化だ。しかしこの場合のそれは、単なる最適化ではなく、質的な安定化をも意味する。
そうすると、最初にあった特殊性すら決まりきった、予想のできる、平坦な、面白みのないもの……になってしまう。
これは、創造的ななにか、私たちが新しい方向へと進もうとする最中には、あまり良くない行動だ。

つまり、行動の最適化と、その中身の安定化は異なるものということだ。
行動を最適化しようとするあまり、その中身をも決まりきったありきたりのものにしてしまう。
それは、単なるルーチン化ではなく、今までの成功を失うことを恐れ、守りに入っていることになる。

残念なことに、守りに入ることに関して、クリエイティブな観点からはマイナスである。
だから、ルーチン化と守りに入ることは明確にわけなければならない。その意識を持つことで、最適化ばかりに目を奪われることなく、より適切な創造性を発揮することが可能になる。

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