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「物語的」当意即妙。緊迫の濃度調整

 当意即妙というのは心地よい。それは物語の中でも淀みなく、人物たちの掛け合いが表現された1つの手法である。往々にして、当意即妙というのはそれがどのような場合に展開されようとも、とりあえず好まれるものである。
 だから物語という文章表現が創られるとき、作者は、1つの到達点として当意即妙さを目指すことも良くある。しかしこのときばかりは、それはとりあえず目指すべきでないものであることを、創作者は把握しておかなければならない。

 確かに、それは良いものに思える。誰かが発言し、慣れた口調でそれに返す誰かがいる。不明瞭なことはほとんどなく、ストレスなく会話が進む。時としてその空気は笑いを生み、読み手に好ましい感情を与えてくれる。

「物語」が、文章表現を楽しむ類のものであることを前提とすると、当意即妙というのは目指されるべき到達点になり得る。掛け合いが面白い作品というのは1つの成功例である。しかしそれは、セリフがスルスルと頭の中へ送られ、その一つ一つというよりは全体を楽しむために不可欠である、ということにすぎない。
 まさにその場その場の緊迫感、ある物語上重要な何か1つに注目しなければならないとき、当意即妙というのは、そのフォーカスをぼやかせる原因になってしまう。だから、それは用いられないべきなのである。

 当意即妙があまり好まれないのは、ホラーやサスペンスにおいて、まさに敵と対峙しているとき、同じ空間に敵がいるとき――即ち、緊迫感のあるシチュエーションだ。なぜならそのとき、登場人物たちは敵のことに半分以上気を取られているからだ。
 現実でもそうである。
 他のことに気もそぞろであるとき、その発する言葉は脈絡がなかったり、生返事だったり、ただのオウム返しだったりと散々である。つまらない。しかし、ホラーやサスペンスの場の空気感として、そういった「それどころではない」というのは、まさに当意即妙でないやりとりによって醸し出される。だからむしろ、そういった状況に、物語が陥っているのだ、渦中なのだという場合は、当意即妙さは邪魔である。

 だから、当意即妙さは「平時」であり、そうではない「戦時」は、当意即妙の表現が抑えられるべきである。当意即妙は緊迫感の濃度を表す。その度合いをコントロールすることが、物語の質を高めることに繋がる。
 適切な「当意即妙」を物語の随所に投入することによって、その物語は全体として緊迫‐弛緩のバランスが整った良いものとなる。反対に、それを目指すのであれば、「当意即妙な掛け合い」はなくてはならないし、同時に、それが投入されるべき場所を見極めるということも、なくてはならない、創作上のテクニックである。

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