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ゲームと現実の境界線は?映画とゲームの違いから見えたもの

我が家の子どもたちは毎日ゲームを追いかけて生活している。上の息子も末っ子娘も少なからずゲーム三昧だけれど、下の息子(中2、不登校)は日がな一日リビングで、仕事をしている私の隣にいるのでよくわかる。

PUBG、荒野行動、フォートナイト…

漏れ聞こえる銃声や爆破音に、思い切りしかめ面をする私。それなのに、「今ヘッドショット決めたよ!」「手りゅう弾の効果的な投げ方はね…」「今日は全部で〇キル(殺した人数)したよ!」と、嬉々として報告してくるのはなぜか。

~金曜ロードSHOW!「プレデターズ」

さて、今日は金曜日。夜9時からの金曜ロードSHOW!は「プレデターズ」

戦場ゲーム三昧の下の息子も、ゲームそっちのけでテレビにくぎ付け。

別の部屋で仕事をしている私のところまで、「キャー!」「わー!」「怖い怖い怖い!!」「来ないで!!」という騒ぎが聞こえてくる。

私はなんだか不思議な感じがした。

毎日毎日残酷極まりない(と私には見える)戦場ゲームに明け暮れていて、恐怖や残酷さには慣れてしまったかと思ったのに。あれだけ飄々とゲームの中の戦場を駆け回っているのだから、もっと鈍感になっているかと思ったのに。

~ゲームを知らない母とゲーム大好きな子どもたち

私はテレビゲームの類を一切やらずに育った。世はスーパーファミコンブーム。マリオやロトの話に沸いていた。私の両親はテレビゲームを買ってくれなかったので、私はその楽しさを知らずに育った。

だから、子どもたちがハマっていくゲームの楽しさが、私はイマイチわからない。

わからないばかりか、戦闘や戦場のゲームを日常的にやっていると、恐怖や残酷さに慣れて鈍感になり、犯罪性や被害者の思いに鈍感になるのではないかとすら考えてしまう。

ゲームと現実が、子どもたちの中でどうつながっているのか?が実感としてわからない。

残酷な事件が起こると、必ず誰かが言う「残酷なゲームをしていると、残酷なことをしたくなるのでは?」という言葉に私は反論できない。この引っ掛かりを振り払えない。無邪気に(と私には見える)ゲームを楽しむ子どもたちの横で、私はひとり、心から笑うことができない。

ゲームって、ほんとうに何なのだろう?

「プレデターズ」を観終わり、お風呂に入っていた下の息子が出てきた。そして「でもさー」と話しかけてきた。映画とゲームの違いについて、お風呂の中で考えていたらしい。

~映画とゲームの違いとは

彼曰く、

・ストーリーの有無

映画はストーリーがあって引き込まれてしまうけれど、ゲームはストーリーをあまり気にしない。「その場にいるだけ」という感じらしい。

・映像との一体感

映画の一体感はすごい。自分もその世界にいる感じがまざまざとする。ゲームは違う。その世界に入り込む感じはほとんどしない。

・観終わった時の気分

映画は「帰ってきた!」感がすごい。別世界から現実に帰ってきた感じ。ゲームはそうはならない。長時間没頭して戦場ゲームをしていても「戦場からただいま帰還!」という気分にはならないらしい。

~ゲームは臨場感で映画に敵わない

だとすると、ゲームがやたらと残酷さやリアルさを追求するのは仕方ないのかな?と思えた。リアルさを追求して、臨場感を追い求めても、映画には敵わない。戦場を走っている実感、危険と隣り合わせの体感、そこからやっと帰ってきた感を創出することはできないのだから。

ゲームはどこまで行っても「単なるゲーム」なのか。

そう言ってみたら、下の息子は「現実と重なったりしないよ」と答えた。「現実と重なったりしないから楽しいんじゃないか!」

これまでも何回か彼の口から聞いた言葉ではあったけれど、今夜の私は腑に落ちた。

~変わらない子が教えてくれたこと

残酷な事件は残酷なゲームやアニメから生まれるんじゃない。これだけゲームの中の戦場を毎日走り回っているこの子が変わらないのだから。想像力があって心遣いができるこの子は変わっていない。

反論の論拠はこの子だ。朗らかにゲームと現実の境界を分析して見せるこの子。

では、残酷な事件は何から生まれるのか?

これはまだわからないけれど、私の心は軽くなった。

明日からは、隣から銃声が聞こえても、爆破音がしても、悲鳴が響いてもうろたえずに笑っていられそうだ。
 

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