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『嫌われる勇気』 読書感想文

小学生の頃、私は友達中心の人生を送っていた。

友達がいればそれだけで心が満たされていたので、今あの頃を振り返ると孤独とは無縁の世界を生きていたのだろう。

でも気がついた頃には、複数のグループを往来するような八方美人人間になっていた。どこにも属さないし、誰も否定しない。よく「来るもの拒まず去る者追わず」なんて言うが、私の場合は「来るもの拒まず去る者つくらず」だったのかもしれない。

それだけ嫌われることが怖い人間だった。

33歳になった今、不思議なことに私は真逆のことをしている。「嫌われる勇気」を会得しようとしているのだ。

本書を知ったきっかけは、あっちゃんのYoutube大学だ。動画を観終えた後、すぐに近所の本屋に駆け込んだ。嫌われる勇気と幸福度の相関性があまりにも衝撃的で、気がついたら本が付箋だらけになっていた。

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あまりにも情報量が多く、本を読むだけでは消化できないと感じたので、以下3点に分けて脳内整理をしたい。良ければお付き合いください。


1. 「課題の分離」を意識する

まず度肝を抜かれたのは、アドラー心理学における「課題の分離」という考え方だ。本書では、課題の分離についてこのように説明されている。

我々は「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題を分離していく必要があります。

思わず「いや、そんなの当たり前でしょう」と突っ込んでしまったが、少し読み進めていくとこのようなことが書かれていた。

他者のために良かれと思ってしていることが実は
他者の課題に介入しているだけに他ならない。

うっ。思い当たる節がある・・・。

ここで、本書の例を挙げたい。子供の将来を案じて教育熱心になる親が子供に「勉強しなさい」と言うとしよう。でも、この場合の <勉強する・しない> は本来子供の課題であって、親が関与する必要はないのだ。

なぜなら、例え子供が勉強しないとしてもその結末(勉強についていけない、志望校に落ちる等)を最終的に引き受けるのは、子供になるからだ。

「子供がより良い将来を築くことができるためにも、子供に勉強させることこそが親の課題なのでは?」そんな疑問に対して著者は言う。

それは、他者の課題を自分の課題に置き換えているだけ。(子供に勉強させたいのは)自分の見栄や価値観から来るものなのでは?

この章では、辛辣な言葉が数多く並べられている。しかし、だからといって放任主義を推奨しているのではなく、あくまでも必要な時にはサポートするよ、という姿勢を見せ続けることが大切だというのだ。

理論的にはわかるけど、この助言は非現実的だし、厳しすぎるような気もする。世の中そんなに簡単に割り切れるものなのだろうか?

別のことに置き換えて、今一度整理してみたい。

2. 「他者の期待」に縛られない

昔、上司との関係に悩んでいた時期があった。個人目標はしっかり達成していたのだが、上司からの期待が高すぎて、私はいつしか「期待に応えられない自分」を責めるようになっていた。

あの頃、私はこの状況を自分の課題として捉えていたが、アドラー心理学的にいうと、これは「上司の課題」となる。私の意思や経験を無視して、本人の価値観だけで「私のあるべき像」を作り上げていた。そして、それを期待と呼んでいただけ。

その延長線上で理不尽な感情をぶつけてきたとしても、それはその上司が解決すべき課題なのだ。

こうやって振り返ると冷静に判断できるけど、職場の環境やワークロードなど様々な要因で他者の課題を自分の課題として捉えてしまう。

本書では、課題を分離するための具体的なハウツーは書かれていない。その代わり、こんな言葉が出てくる。

他者はあなたの期待に応えるために
生きているのではない。

裏を返せば、あなたは他者の期待に応えるために生きてるわけではない、となる。

胸に矢が突き刺さると同時に、何かがストンと落ちる感覚がした。

私のようなHSP気質の人間は、他者を気遣うあまりに他者の課題に(勝手に)介入しがちだ。見て見ぬフリができない。だからこそ、この考え方を心に留めておきたいと思った。

3. 「見返り的発想」を捨てる

ここで一つの疑問が浮上する。

親密な人間関係でも同じことが言えるのか。

仕事上での対人関係ならまだ割り切りやすいけど、家族や親しい友人、恋人は?相手を強く想うからこそ生まれる、期待や希望もあるのでは?

本書をさらに読み進めていくと、こんな言葉を目にする。

自分の期待や信頼に対して相手がどう動くかは、相手の課題。自分の期待通りに相手が動かないとしてもなお、信じることができるかどうか。愛することができるかどうか。

「これだけ尽くしているのだから、好きにならないのはおかしい」「あなたのことをこんなに想っているのに、なんで理解してくれないの」と考えるのは、相手の課題に介入した見返り的発想になるようだ。

この章に関しては反論したくなった。頑張ったらその分評価してほしいし、与えている分と同じ、いやもしくはそれ以上の愛情がほしくなる。ロボットじゃない、人間だもの。

モヤモヤしながら読んでいたのだが、前述の他者はあなたの期待に応えるために生きているのではない、がふと頭をよぎる。

「頑張ったらその分評価してほしい」を言い換えると、「評価してほしいから頑張る」だし「与えている分の愛情がほしい」を言い換えると、「あなたからの愛情がほしいから私からも与える」となる。

これではまるで、自分の人生を生きているようで、他人の人生を生きているようだ。

そんな風に思考を巡らせていると、著者のメッセージがなんとなく理解できた気がした。見返り的発想がある限り、確かに心は一向に自由になれない。

相手に期待を寄せるから、不安やストレスが生まれてしまう。もしも見返りを求めず、常に自分を主軸に置くことができたら、物事はもっとシンプルになるのだろう。きっと。

嫌われるのも悪くないじゃん!

正直に言うと、本書で提唱されていること全てに納得できた訳ではない。世の中そんなにスパッと割り切れるもんじゃないとさえ思ってしまう。

ただ、一つ分かったことがある。

私はこれまで、自分の課題と他者の課題を混同していたのだ。そもそも介入する必要が一切ないことにも首を突っ込み、時間や労力を費やしていたのだ。だからこそ見返りを求め、求めていたものが手に入らないと勝手に落胆していた。

長い間、この状況を「承認欲求依存」や「自信の欠落」と捉えていたが、本書を読んで、私は自ら物事を複雑にしていただけなのだと気付かされた。

もしも「嫌われる勇気」が、自分の人生を自由に、幸せに、生きるために必要な要素だとしたら、嫌われることだってそう悪くないのかもしれない :)

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