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ネガティブは海の底に置いてきな

年のわりにキメの細かい母の左の頬が水膨れている。
一晩中、頬で体を支えていたせいだ。

母がパーキンソン病だと分かってから、大方10年以上になるだろうか。幸い気づいたのが初期だったこともあり、薬を飲めば症状はなくなった。あの頃はまだまだ若かった。10年薬を服用すればやはり薬の効果は薄れる。そして、人は誰しも老いていく。治る病気なら希望があるが、パーキンソン病はゆっくりゆっくり悪化していく一方で希望がない。
冬の寒さは、パーキンソン病の症状を増幅させる。体を温めて血のめぐりを良くする必要がある。厄介なのは、心の問題だ。どうしてもやる気が無くなってきたり、弱気な言葉が多くなる。
母のネガティブな言葉をポジティブな言葉で返す。けれど、あまりポジティブを降り注ぐと、逆に閉じこもってしまうことも知っている。自分だってそういう経験がある。「あんたにゃわからんさ。」と、ポジティブさにうんざりして、降り注いでくる人によっては反吐が出そうな時もある。分かるけど…、つい言葉にしてしまう。「負けるな!」「しっかりせいっ!」そう、自分にも言い聞かせるようにポジティブを降り注いでしまう。
いつもは、そう考えてしまっても仕方がない、病気のせいだ…と根気強くいるが、その日はどうしてもイラっときてしまった。私のポジティブが母のネガティブに負けそうで、私までネガティブの海の底へ引っ張られそうだった。私のポジティブだって吹けば飛ぶような張りぼてなのだ。その恐怖も相まって、語気がいつもより強くなった。
母は『一番』が好きな牡羊座だ。何でも一番。並ぶの嫌い。ちゃっちゃと気が利き、歩くのも速い。パーキンソン病のすり足カクカクでも私より早い。負けず嫌いだ。私の語気の強さに、母もイラっとして拗ねた。
中々の空気の悪さだった。こういうことは滅多にないことだった。
喧々諤々のまま私は自分の家に戻った。

その次の朝、一番で買い物の約束をしていたのに連絡がない。近頃よくあることだが、前日のこともあるので嫌な予感しかなかった。大慌てで母の家へ急いだ。母はソファの下にずり落ち、膝を着いた状態で、座面に力の入らない手と頬で上体を支えていた。血の気が引いた。ひとまず体を起こしたが、一晩中その状態だった為、体は痺れていた。父の介護のことを思えば、母は楽勝だ。小さくて細い。温めたタオルで体を拭き、着替え、シップを貼り…、身なりを整えた。
「買い物は明日でいいか…?ちょっと眠りたい。」
何を言っているのだ、この母は。買い物何ぞいつでも行けるし、兎に角寝て欲しかった。
痺れた足をマッサージしながらゆっくり動かした後、温めた布団にすっぽりと包み、寝かせた。
一息ついて、前日の自分を猛省した。
何だってあんなにイラっときたんだろう…。
もう、ひとり暮らしは限界ではないのか…?
永い父の介護を済ませたんだ、もう少し、残りの何年かは生き生きと過ごして欲しい…
それは、そんなに難しいことなのだろうか…?
そもそも、もう、別れが近いのか…?
つけっぱなしのTVの音は遠く、ぐるぐると色んなことを考えていた。どれも答えはなかった。
母の眠るまにゼリー状の水分補給ドリンクやサッと食べれるものなどを調達した。目が覚めた母は、驚くほどのスピードでそれを飲み干し、
「美味しい。」
と、つぶやいた。
簡単な計算も問題なく、手足の痺れもゆっくりと融けて、食欲もあった。
ホクホクの焼き芋は私が無性に食べたくて買って帰ったが、母もモリモリ食べた。布団からテーブル、テーブルからソファ、ソファから洗面所と、夕方には少しづつ歩けるように復活した。心から安心した。
「みんなのために、病院へ放り込んで。」
と、寝たきりを覚悟したような弱気なことをつぶやいていた母も、歩けることを確認して、表情が明るくなっていた。
ここのところ、実は表情が暗かった。パーキンソン病の症状に『仮面様顔貌』というのがある。顔の筋肉が固くなることで表情が乏しくなる症状だ。母にはそれが見られるのだと思う。前ほど薬が効く時間が継続しなくなって、下手をすると一日中強張ったまま終わる日がある。それは、やはり落ち込むだろう。そういう精神的なこともある。
聞けば、一晩中変な格好でいる間、薬も飲めずにいたのにパーキンソン病の症状は逆に融けていくような感覚があったと不思議なことを言う。
「生きねば!」
「体勢をどうにか整えたい!」
パーキンソン病など末端の症状でなく、生きるか死ぬかほどの所で必死になっていたせいだろうか。
体勢を上手く保てるように、色々部屋を整え、夜また具合を見に来る約束をして、一旦私は家へ戻った。帰り際、ソファに座る母を振り返ると、生還した様な…憑き物が落ちたような…。とてもスッキリとした顔をしていた。久しぶりに見たその表情に大きく深呼吸できた。
「ありがとう。」
どこにだか、誰にだか。死んだおばあちゃんかな。見守ってくれている誰かに感謝した。
夜、LINEにメッセージが届いた。
「完了。お休み。」
どうやら、ひとりで布団に入れたようだ。
良かった。とても疲れた一日だった。
「ホットミルク飲みたいなぁ。」
と家の能天気な主人が言うので、何となく自分の分も入れた。ホットミルクなんていつ振りだろうか。体の芯から温まるようだった。そのままベッドに潜り込んで寝た。いつ眠りについたか分からないほど、きっと一瞬で寝たと思う。
朝までぐっすり、いつになく深い眠りだった。


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