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懐かしい味が変わる時

いつに行っても何人かは待ち人がいて、少しゆっくりめに行くと閉まっている。そんなうどん屋が駅前にある。商売っ気がないのか、お高くとまっているのか。でも、悔しいかな、とても美味しいのである。うどん屋なのだから当然だが、出汁が美味しい。うどんやお蕎麦は勿論美味しいのだが、私は断然「天とじ丼」。注意しなければならないのは「天丼」ではないことだ。海老天は卵でとじられていなければならない。

小さい頃、祖母の家へと行く電車を待つ間、時々昼食にと立ち寄ったうどん屋。いつも、親子三人で木の葉丼ときつねうどんと、もうひとつ何かを頼んでいたと思う。蒲鉾と三つ葉がのった卵とじ。最後のお米にまで甘めのつゆ出汁が絡んで、子供のお口にも実に美味しかった。お店はいつでも満員で常に待ち人がいる状態。それでも、いっぱいだから今日は別の店へ行くか…と出ていく人はいない。みんな静かに、あるいはおしゃべりをしなが待っている。女将さんは小さくて丸くて、ハリのある高い声で威勢がいい。テキパキとした無駄の無い接客が気持ちがいい。子供の私たちのような客には何も言わずとも、小さな取り皿をスッと笑顔で差し出してくれる。

家にマイカーがやってくると、電車で祖母の家へ行くことはなくなった。同時にうどん屋へ行くこともなくなってしまった。それでも、時々あのつゆ出汁のしみた木の葉丼が食べたい…と思い出すのだ。時を経て、駅前は随分と当時の趣とは違って華やかになった。うどん屋は少し場所を変えてはいるがちゃんとある。ちゃんとあるのを確認しては、いつかまた行くぞ!と決意する。

母は近頃、どこにも行きたがらない。気晴らしにどこかへ誘ってみても、家がいいんだとテコでも動かない。祖母そっくりだ。ならば、あのうどん屋はどうだと、ちょうど昼時だしと誘ってみると、「ああ。あのうどん屋ね!」と声色が変わる。即答で行きたいと言う。流石、私と同じだ。美味しいものには目がないのだ。そして、美味しいものは記憶に残り、一瞬で人を元気づけるのだ。

いそいそとうどん屋へ向かう。ウキウキと。塞いでいた彼女はどこへやら。弾むように歩くふたり。「天とじ丼がおいしいよ」不意に投げかけられた言葉に、動揺する。木の葉丼を食べようと思っていたのに迷うではないか。懐かしい味を頂くか、おすすめの天とじ丼にするか…迷った末、木の葉丼ではなく、天とじ丼を注文した。

「天とじ丼」。カラリと揚がった海老天が卵でとじられてのっかっている。天とじ丼がやってきた!甘い香りが湯気にのって食欲をそそる。最高だね。二人はニンマリと笑うと一口目を口にする。小さな声で「美味しい…」とこぼし、首をゆっくり縦に揺すって喜びを表現しあう。甘めのつゆ出汁と絡んで、お箸が止まらない。懐かしの木の葉丼にはしなかったが、それを思わす卵とじの部分で十分消化できた。なるほど、これは子供には勿体ない味だ。天とじ丼は大人に許された味。

木の葉丼を頼んでいた頃から随分年月が過ぎたもの。女将さんは相変わらず小さくて丸かったが、娘さんに切り盛りを任し、ゆっくりとおもてなしされていた。覚えているだろうか。私達親子のことを。すっかり変わってしまった姿を見て、一致するだろうか?人は変わっていくのに、お店の味は変わらないのが、当たり前なんだけど、どこか不思議な気がした。

小さなころの木の葉丼の記憶に加えて、母のウキウキを導いた天とじ丼の記憶がこのうどん屋でインプットされた。大人になった私が注文するのは、天とじ丼。




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