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始まりはリヴィング・エンド

洋楽ディレクターになりたかったのは、アーティストに会えるというミーハーな気持ちが一番強かったと思います。この仕事は、日本の洋楽ならではと思うのですが、日本に洋楽アーティストの事務所がないだけに、日本でアーティストの窓口の役目を果たします。つまり、そのアーティストに関してレコード会社に来た問い合わせを、すべてさばくことになるのです。そして、一番重要な部分は、そのアーティストを日本でどう売るか考えることで、その結果で評価が決まるのです。

売り上げを持つ重要なアーティストは、先輩ディレクターたちが担当しているので、新人ディレクターは必然的に新人アーティストを担当することになります。僕にとって、ラッキーだったのは初めての年に、リヴィング・エンドを担当できたことでした。リヴィング・エンドはオーストラリア、メルボルン出身の3人組で、パンクとロカビリーをミックスしたサウンドで、当時パンカビリーと呼ばれていました。セルフ・タイトルのデビュー・アルバムはオーストラリアで1位を獲得。オーストラリアではEMIがアルバムの権利を持ち、それ以外の世界はワーナーがリリースする権利を得ていました。ということで、ここ日本でもワーナーからリリースされることになるのですが、ここ日本では未発売にするのも、積極的に売り出すのも、日本次第、つまり日本の市場にあっているかどうかなのです。

僕はアルバムのサウンドが一発で気に入りました。そして何より、曲がよかったし、フロントマンのクリス・チェイニーの声もよかった。アルバムのミックスはグリーン・デイの『ドゥーキー』を手掛けたジェリー・フィンがやっていたので、”オーストラリアのグリーン・デイ”というような売り出し方で、日本で大人気のグリーン・デイの名前も借りて、パンク・ロック・ファンにアピールしようとしました。アルバムの発売は99年5月26日。アルバム・タイトルは『リヴィング・エンド』、本来は『ザ・リヴィング・エンド』とすべきなのですが、わかりやすさを優先し、バンド名からも”ザ”を抜きました。あとで、バンドのマネージャーのレイ・ハーヴェィ女史からは、”ザ”が入るからと、しっかり指摘されました(苦笑)。でも、もうその時は売れていたので、それ以上は言われませんでした。

実はアルバムをリリースした時点で、すでに初の来日公演が決まっていました。グリーン・デイのライヴを手掛けて成功したクリエイティブマンが、東名阪のクアトロ・ツアーを決定していたのです。当時の新人バンドには、この東名阪のクアトロ・ツアーというのが多く組まれ、これを成功させるかどうかで、ステップ・アップできるかがわかりました。レコード会社も積極的にこれをサポートしていたのです。東京のホテルは渋谷クレストンホテルが常宿でした。渋谷のクラブクアトロまで、歩いて行けるからです。ですので、あの周辺には多くの思い出があります。また当時、音楽評論家の故福田一郎先生が、日本盤リリースの前に来日が決まるとは、すごいとTVで言ってくださったのも、いい思い出です。

しかし、僕にはアーティストに会うのに、一つ不安がありました。英会話力です。大学は英文科を出ていたものの、当時ほとんど外国人と話したことがなかったのです。宣伝マン時代にもいくつか失敗がありました。
ちょっと話はそれますが、ライヴ後のあいさつの時です。僕はチャカ・カーンの大ファンで、先輩が「こいつはあなたの大ファンだ」と紹介してくれて、チャカがジョークで、「Will you marry me?」と言ってくれたのに、ジョークも解せず、「No」と答えてしまったり、グリーン・デイのマイク・ダーントが「What do you do?」と、僕の仕事を聞いてくれたのに、意味が分からなかったり、英会話は弱かったのです。当時の上司だった宮治さんに、「初めてバンドに会うとき、なんて自己紹介したら、いいんですかね」と聞いたら、「俺が日本のA&R(アーティスト&レパトア)だって、びしっと言ってやれ」といわれたので、クレストンで初めて会ったときは「I'm your A&R in Japan」と言いましたよ。バンドもびっくりしたでしょうが、レコード会社の人間だというのは伝わりました。

リヴィング・エンドとは居酒屋の天狗によく行きました。彼らはオージーですから、とにかくビールです。お気に入りのメニューはサイコロステーキ、バターコーン、から揚げです。そこでビールを飲みながら、英語で、お互いいろいろいろなことを語り合うわけです。この当時は東名阪のクアトロ・ツアーで来るバンドが多かったので、私の英会話力は天狗で、居酒屋で鍛えられた、居酒屋イングリッシュなのです。僕はレーベルで、彼らはミュージシャンですから、音楽の話もします。彼らもいろいろ影響を受けたミュージシャンを教えてくれました。まずはストレイ・キャッツやエルヴィス。クリスは『コンプリート・サン・セッションズ』をリコメンドしてくれました。レヴァレント・ホートン・ヒートもすすめてくれました。ただ、彼らの次のアルバムの音楽性に色濃く出てきますが、AC/DCやローズ・タトゥなどのオージー・ロックも好きなようでした。それと、クリスはグリーン・デイのビリー・ジョーをすごくリスペクトしていて、「マイノリティ」を聴いて、ビリーの才能がすごすぎると、言っていたのを思い出します。

リヴィング・エンドの音楽の強みは3ピースというバンドのスタイルにありました。クリスはグレッチのギター、スコットは巨大なウッドベースで、パンク・ロックをやるわけです。面白かったのは、パンク・ファンだけでなく、ロカビリー・ファンも結構いたことです。「プリズナー・オブ・ソサエティ」や「セカンド・ソリューション」を聴くと、両方が融合していることがわかります。最初の東名阪のクアトロ・ツアーは大成功でした。つまりデビュー・アルバムはとてもうまくいったのです。そこで、どんなアーティストにも2枚目のジンクスというやつがのしかかってきます。ただ、彼らにとって、ラッキーだったのは、クリエイティブマンがサマーソニック・フェスティバルを2000年にスタートさせ、初年度に彼らを呼んでくれたことです。

2000年のサマーソニックは千葉でなく、富士急ハイランドで行われました。僕はこのステージが彼らのキャリアにとって、非常に大事なものになるだろうと思っていました。クリスが、黒のフレッドペリーのポロ・シャツでステージに上がろうとしたとき、「それはあまりロックっぽくないから、変えたほうがいい」と僕が言ったので、クリスは「ティム・アームストロングっぽくないか?」と言いながら、黒のTシャツに袖を切ったGジャンに着替えてくれたのを覚えています。こんなことを言ったのは今後もなかったので、よっぽど力が入っていたのだと思います。バンドはこの時にすでに、セカンド・アルバム『ロール・オン』のレコーディングをオーストラリアで終えていて、このステージでシングル候補の2曲、「ピクチャーズ・イン・ザ・ミラー」と「ロール・オン」をプレイしました。彼らのステージは熱狂的に迎えられました。僕はとりわけ「ピクチャーズ・イン・ザ・ミラー」を気に入ったので、ファースト・シングルとして、プッシュしました。

話は少しそれるのですが、実はこのとき、同じステージで、最高のロック・バンドのライヴを見ました。それがアット・ザ・ドライヴインのライヴでした。リヴィング・エンドの前に彼らはプレイしたのですが、そのテンションはすさまじく、彼らがあのまま活動していたら、間違いなくビッグ・バンドになっていたとおもいます。つまり、リヴィング・エンドはそのあとにプレイしなくてはいけなかったので、非常にやりにくい環境だったのです。しかし、オーディエンスは彼らをあたたかく迎え、彼らのパフォーマンスはその憂いを吹きとばしたのです。

初年度のサマーソニックは、山梨から大阪まで、バスで移動したのもいい思い出です。日本のツアーは新幹線移動が常でしたが、あれは楽しかった。バスの車中で、ミックス前のアルバム『ロール・オン』も先行して、聴かせてもらったのですが、これが本当に素晴らしくて、感動したのを覚えています。このあと2000年12月にリリースされる、このアルバムに収録された楽曲の数々。哀愁のメロディック・パンクで、リヴィング・エンドは日本での人気を決定づけたのです。新人ディレクターと新人バンドにとって、最高のスタートとなりました。<次回に続く>




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