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(107) 視線恐怖

目深に帽子をかぶり、いつも彼は面接に表れる。この仕事をしていて、その帽子の意味が良く分かるから、毎回なんだか切ない。

「キャップ、ナイキからアディダスに変えたんだ。気分転換なの?」
「いやぁ、帽子はいくつか持ってるんですよ。今日はアディダスですけど・・・」
「そうか。ところでこの頃電車の中で人目が気になる度合いはどうかな?」
”アレ”のおかげだと思うのですが、以前よりずっと楽です。自分でもびっくりです」

彼はニ十歳。
中学で不登校となり、高校へも通わなかった。私の勧めもあり、苦しい思いなんかしなくて上の学校へ行けば良いと、「高等学校程度認定試験」を受け、現役と同じ年に大学へ進学した。今、二年生である。

彼の”視線恐怖””自己視線恐怖”と呼ばれるものであり、「自分が他者に投げかける視線が、他者を”不快”にさせるかも知れないと、過剰に不安に思うもの」で、外出のたび疲れ切ってしまうものであった。徐々に外出を避けるしか楽になれなかった。ひきこもり、安心出来る自分の部屋から出ない生活を何年もした。父親の勧めで、私の面接に来るまでに三年を要した。三年の間、父親の携帯に、「楽に行こう」「明日は名月だからベランダから見るといいよ」「明日、胃カメラ飲むことになったけど、恐くて逃げ出したいよ」などと、何でもないメールを送り続けた。

ある日、父親の携帯から
「いつもメールありがとうございます。僕はどうすればいいのか、わかりかけて来ました。高認試験、申し込みました。合格通知貰ったら・・・先生に会いに行きます」
私は半日泣き続けた。嬉しかった。
「いいか!来られる日が来たら目深にキャップをかぶって来たら良いからね。待ってるよ」と、返信した。

「自分の視線が他者を不快にさせてしまう」などと考えてしまう程、彼は自己を否定しているのだ。どんなことがあったのか、それほどまでに自身を認められない・・・こんなに苦しいことはない。

”認知行動療法”という考え方がある。
「考え方」というのは、大いに人によって違いがあり、思い込みや歪んだ思考が身についてしまっている場合がある。そんな時、考え方の行動パターンに偏りがあり、修正しないととんでもない壁にぶちあたることになる。その”認知行動療法”というのは、「行動パターンの偏り」とその「考え方」を修正してバランスを良くするというものである。「修正」が正しく出来ると、「症状」は改善に向かうし、ストレス対処能力を高めることが出来ることになる。彼の恐怖というのは、「考え方」の結果生じた「症状」であり、「考え方」の「修正」が必要なのだ。彼が人前で不安になった時、どんな「行動」をしているか?そして、どんな「感情」になっているか?これが何より重要である。

彼は人に近づくと、自身の視線が他者を不快にすると思い込んでいるから、視線を相手に気づかれないようにするために、「下を向く」行動となる。これは”安全行動”と呼ばれ、そうすることで不安にならず安全を守るための行動であるのだ。この”安全行動”は考えた結果、まずは安全を一瞬確保出来る。しかしそれは一瞬でしかない。また、次の人に対して視線をそらさねばならないとなると、永遠に続くことになる。これでは、心身共に長くはもたないのだ。となると、決してその行動は”安全行動”とは言えない。一瞬でしかないからである。その時、「下を向く・目をそらす」という行動では安全を確保出来ないのだ。勇気がいるのだが、「下を向く」という「行動」を「修正」することが必要である。

「前を見て相手に目を向ける」という「行動」に「修正」することになる。恐いし、今までそれを避けて来た。それで”安全を確保”出来たと思い続けて来た。一瞬逃れたに過ぎなかった。永遠に恐いままでしかない。
”恐い”
”勇気がいる”
彼にこの橋を渡ることを呼びかけた。
傍にいるから、一緒に人前に出る・・・視線を人に向けるを・・・・勇気を出してやってみよう、と、彼の言う”アレ”とはこの”行動療法”のことである。

「先生、目をそらさず相手を見るってこと、恐くて恐くて・・・でも先生が一緒にいてくれて恐る恐る目を向けると・・・相手の目は、僕の不安をよそに何てことなく普通で恐がるようなことじゃなかった」
「恐がりながらで構わない。続けて行けば決して不安なことは起きないよ」

今は大学で映画サークルに入り、元気である。
彼は、”アレ”のおかげだと口癖のように言う。


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