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(10) 臨機応変

熟語というのがある。それが四字熟語となると、なかなか面倒なものである。よく入試問題に出題されたりするが、これは相当意地悪ではないかと思う。

こんな話を聞いたことがある。「〇肉〇食」の空欄に漢字を入れて四字熟語を完成させよ、という問題があったそうである。もちろん、「弱肉強食」と完成させるのが正解である。それを「焼肉定食」と答えた受験生がいた、という話であるが、これは出来過ぎで作り話に違いないと思うが、何とも言えずユーモラスで良い話である。浪人生が苦しい受験生生活の中で、定食屋のメニュー表にある店の中では高価な部類に入る焼肉定食850円を無理して注文していたとしたら、つい焼肉定食が弱肉強食より先に頭に浮かんでしまうに違いない。また、分からなくても苦し紛れに答えたのか、正解を知りながらジョークで答えたのか・・・と、こちらもつい考えてしまうのである。

この問題に正解して、2点か3点貰うことも大切に違いないのだが、洒落で焼肉定食と応えて減点されながらも得意げな顔をするのもなかなか上等な生き方である。入試ともなるとそうもいかないのかねぇ・・・。

カウンセリングの最中に私がよく使う四字熟語がある。”臨機応変”という、四字熟語を完成させる入試問題でも高頻度で出題されるうちのひとつであるらしい。神経症・鬱・無気力症などで精神的に圧倒されたクライアントの方々への接し方は並大抵ではない。その不安や状態を受容することだけでも大変である上に、そのクライアントの少しでも楽になる道筋を見出し、第一歩の踏み出しを伴走するわけだから正直言って難しい。そんな難しい状況の中でもがいている私は、圧倒されて身動き出来ないでいらっしゃるクライアントの前に立つ私の”心がどう動くか”を迫られる。私自身は私の人生観・価値観をまず棚上げして、それと距離を置き、自由自在な所に心を置かないと、決してその先は見えて来ない。私は私なりにそう生きて来たし、こうしか生きられない人生観・価値観を持って来たから、一旦棚上げすることが難しいのである。求められるのは、柔軟な姿勢・思考とか臨機応変な構えというものであろう。口で言うのは易しいが、囚われ過ぎている自分から抜け出ることが至難の業である。それに近づこうとする私と、程遠い私の間に想像を絶するほどの葛藤がある。

私は大学時代ラグビー部に所属していた。今時サッカー、バスケ、野球に追いやられて、世間様にラグビー部出身ですなどと口に出来ない状況で、いささか気が引ける。そのラグビーだが、臨機応変で柔軟な姿勢が問われる最たるスポーツであるような気がする。1チーム15人という人数もそうであるし、何しろボールが丸くないからどの方向にバウンドするか分からないのである。両チームで30人もの混戦の中で、予知不能なバウンドをするボールをゴールまであらゆる手段を講じて運ぶのは並大抵のことではないのである。

フォワードの獲得したボールをどう展開するかは、スクラムハーフというポジションの役割である。スタンドオフというポジションとの連携はあうんの呼吸が必要となる。誰もが出来るポジションではないのだ。ラグビーに精通していることはもちろんのこと、柔軟かつ”臨機応変”な構えがないと有利な展開は出来ないのである。しかもそれを瞬時に計算して、スタンドオフにボールを出すのであるから、このスクラムハーフが試合を左右すると言っても過言ではない。

不思議なもので、ラグビーにおけるポジション性は、プライベートな生活までも容易に推測させるものがあるから面白い。スクラムハーフをこなす者は、普段の生活にもそれが滲み出る。その冷静さ・現状の分析・今後の展開・アクシデントの解決の方向性など、実に頼りになり仲間の中で常に中心でまとめ役であり、仕切り屋でもある。私もフォワードの一員ではあったが、ロックにまわされたり、フランカーをやったり、時にはベンチと、重要なポジションを任せされる存在などではないから、ボールの後を追いかけタックルを決めるだけの選手であった。今では単なる観客として、ラグビーの試合を観戦するに過ぎないが、いかにスクラムハーフの柔軟かつ”臨機応変”な構えが、ゲームの展開にどれだけ影響するのかがよく分かる。「なるほど」と、感心する。

”臨機応変”とは、
臨機・・・場・場合に臨んで
応変・・・変化に応じて
その場の状況に応じて柔軟に行動や考え方を変えることを言う。

さて、この構えが発揮できる背景にはどんな能力を持ち合わせなければならないのか?精神的に圧倒された方々はもちろん、一見健康に見える私たちも、余裕を失した場合は極端に柔軟さや”臨機応変”な姿勢を持ち続けることが出来なくなる。解決の方向はもちろん見えなくなるし、不安が不安を生み、ますます自縄自縛に陥ることになる。こう考えてみると、人間とは実に悲しい存在である。自然の存在物より少しでも優位に立とうとして、あらゆる努力をし能力を身に着けてきた。そのことは、ほぼ完成に近いと思う。しかし、その為に失くしたものは大きかったのではないだろうか。追い詰められた場面では身動きが取れない人間は、自然の存在物の中でも特にひ弱でしかない。

木枯しに吹かれると、厚着をして対処する合理性を手に入れたことは立派であるだろうか?木枯しの季節の前に、葉を落として身軽になる落葉樹たちから、何か学ぶことはないのだろうか?既成の何かに頼り過ぎているところから一歩抜け出て、もっと自由自在な所に心を置けないものだろうか?私は、それらの力を持つ「何か」とは、ありのままの自分を認め、受け入れ、自分を信じ肯定出来る力であると思う。そこから生まれる「余裕」こそが、それらを可能にするのではないだろうか。

解けない課題を抱えて、今日もまた散歩に出かけるとするか・・・。


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