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(60) 玲子 ー 深まる秋の中で

玲子は歩を待ちながら、黄金に色づいた銀杏の木を見上げていた。
「去年はどうだったのかしら、これだけの葉が落ちるんじゃ大変だわ・・・。毎日通っているはずなのに、気がつかなかったわ。そういえば、立ち止まることなく急いでここを通っているんだ」と、改めて駅前の大きな銀杏の木を見上げて、そう呟いた。
「玲子、・・・玲子ったら、どうしたの?銀杏なんか見上げて」
「歩、遅いじゃないの。私、待ちくたびれて、ボォーと木を見上げていたのよ。ねぇねぇ、ちょっと騙されてと思って、上見てごらんよ。そうそう、しばらくそうしてるのよ、ずっと梢の方見てみて・・・どう?どんな感じがする?」
「別に、首が痛いだけよ。玲子、何言ってるの、まぁ、あなたは私と違って詩人だし、何か感じたんだろうけど、その世界へは私を誘ってもダメよ。私は知っての通りの食い気の方だからね。まぁ、ひと言感想を言うとしたら、ライトアップするほどの木じゃないってことかな」
残念そうな表情をしながらも、玲子は気を取り直して、
「じゃあ行くか。それにしても、何でロシア料理なの?ピロシキとか、紅茶にジャム入れて飲むんでしょ?苦手だな、そういうの」
「平気、平気。それって食わず嫌いって言うのよ。ピロシキもロシアンティーも不思議な味よ。砂糖だけが甘味料じゃないのよ」

玲子と歩は、女子高時代のバッテリーの仲であった。ソフトボール部の投手と捕手の関係であり、プライベートでも歩は玲子の女房役であった。玲子のウインドミル投法は、背の高さもあってか、相当のスピードボールが出て、関東一の投手との呼び声が高かった。歩はキャッチングが上手く、何しろ肩が良くて、公式試合で盗塁を許したことのない捕手として有名であった。
玲子は、「歩がデンと構えて座っていてくれると、つい安心して思いっきりの球が投げられる」と、言い、歩は歩で、「玲子の球は速いから、モーションを盗めないので私たちバッテリーから盗塁をすることはできないのよ」
と、お互いを認め合う仲であったし、相手を立てる余裕を持ち合わせていた。そんなこともあってか、卒業後六年も経つというのに、昔のままの間柄を続けているのであった。

お目当てのロシア料理店は地階にあった。店内は決して暗くはなく、そのイメージ通り赤が多用してあり、バラライカの音色が大きく響いていた。
「こんなもんよ、イタリアンとたいして変わらないでしょ?」
「違うわよ、パスタの店はこうじゃないよ。もっと明るいし、この赤、ちょっと違うと思うよ。歩はこういうの好みだもんね」
「玲子、それってあなたの先入観よ。ロシアをどういう風に思っているの」
歩はいつもの女房口調で玲子に言った。
「歩、そうやってムキになるところ昔と変わらないね。そんなに大袈裟に言わないでよ。ロシアはロシア、別に先入観も何もないよ。大体、今日初めてなんだから、・・・ただ・・・」
玲子は何か言いたいような様子であったが、口をつぐんだ。
「何よ、玲子。ただ・・・何なのよ。いつもずるいよ、言うのやめちゃうんだもん。ただ、何?聞かせて」
歩独特の心配そうな目をされるのに、玲子はいつも負けてしまうのだった。
「そう、じゃあね、ちょっと長くなると思うけど聞いて・・・。さっき駅の銀杏の木の所でさ、歩に梢を見てって言ったでしょ。そしてどんな感じがするか聞いたよね。その感想が私と同じだといいなぁって思ってたの。そしたら、歩・・・首が痛いだけって言ったわよね。そして、その後に、その世界って言葉で私とあなたを区別して、違うんだからなんていう烙印押されたような気がして、私、とても悲しかった。この店へ来てさ、さっき私がただ・・・って言った後、歩の指摘の通り、ある言葉を飲み込んで言わなかった。またそれを言うと、歩が『なんだそんなこと』って言うような気がして・・・怖かったのよ・・・」
「ごめんね、そうだったの。それは私が悪いわ。許して、玲子。飲み込んだ言葉、聞かせてくれる?」
いつもになく歩は、真剣な表情で玲子に迫った。
「そうね、大切なことだと思うから続けるわ。この店の赤色、私なんだか気になるの。子どもじみてると思うかも知れないけど、これだけ多用してあると、ちょっとね、正直いって気味が悪いのよ。入って来た時背筋がゾォーっとしたの・・・。誤解しないでね、何か意味がある訳じゃないのよ。理由もなく、ただそんな実感なの」

玲子は不思議な気分を味わっていた。それは今までに感じたことのない安堵というか、やすらぎというのか、得体は知れないけれど、ちょっといい感じがしていた。歩にひとつ物足りないところを感じながらも、言えずにきたものを、今言えたからなのか、正直言って玲子にもよくわからなかった。
頬杖をつきながら、じっと玲子を見つめていた歩が、
「玲子、私、何だか今日嬉しいよ。ポンと音を立てて何かが弾けた気がして、何かつっかえていたものが飛んで行った気がするわ・・・。ひとつ聞いていい?」
歩を真似て、頬杖をついて聞いていた玲子が、
「何が聞きたいの、いいよ何でも」
「銀杏の木の梢のこと・・・私がどう感じれば良かったのかな?」
「歩、さっきさ、私、上手に言えなくて間違った表現しちゃったから訂正するけど、決して歩がさ、私と同じ感想持ってくれなくてもいいの・・・ただね、首が痛いって言う感想以外なら何でもいいのよ」
「玲子は何て感じたの」
「歩、こうしない?ここからの帰り、地下鉄で帰るのやめてさ、JRで行こうよ。そして今度は二人一緒に銀杏見上げてみよう。そして感想言い合おうよ」
歩は「さぁ、来い」の表情をした。それは、バッテリーを組んでいた頃、毎回玲子をリラックスさせるために捕手である歩がやった動作であった。左手のミットを右のこぶしでポンポンと二度叩いて、両手を左右に大きく二度広げる動作である。玲子は、その動作に随分と助けられて来たものだった。

二人は明大通りの坂を肩を並べて歩いた。玲子は、頬が微かに濡れているのに気づいていた。温かな涙が夜風に冷やされていくのを味わっていた。歩は歩らしく、少々オーバーに肩を震わせていた。「さぁ、いい?歩、梢の方じっと見つめて、じっとよ。一、二、三」玲子は号令をかけると、自分もさっきしたように大銀杏の木を見上げた。夜も遅いせいか、駅の辺りには人影もまばらで、一日の終わりを感じさせていた。駅から何かがいつも始まり、駅で何かが終わる。ここだけはいつも雰囲気が独特な気がする。この銀杏の木は、ずっと長い間ここに立ち尽くし、その一部始終を見続けているに違いないと、玲子は思った。十一月の声を聞き、急激に冷たさを増した風が、サァーと音を立て、銀杏の葉を撫で付けて行った。風の余韻だろうか、サラサラと葉が揺らいで、ライトアップされた光に黄金色に光って見えた。


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