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(76) やり直せる

「私はやり直せるでしょうか?昔のように笑っていたいんです」

一番苦手とする質問をたびたび投げかけられる。確かにクライアントは、そこに「保障」が欲しいことはわかる。
「大丈夫ですよ。やり直せますよ」
と、言って背中を押して欲しいのだろうと想像出来る。しかし、やり直せるかどうかは、本人次第であり、第三者である私が答えるべきことではないのだ。そんな私の辛さをよそに、クライアントは私にその答えを求める。
苦肉の策で私は、
「一緒にやり直しましょう。出来る限りの支援をしますよ」
これが精一杯である。

実は「やり直せる」という言葉が出るだけで、その言葉の裏には小さな「動機」が隠れているはずだからであるが、私は、「保障」に当たる言葉はあえて掛けないことに決めている。それは、上手くいかなかったときの私自身の「保身」の為などではない。「自身の課題」を自覚して欲しいと強く願う、私の精一杯の配慮からなのだ。アドラー博士の教えである”課題の分離”というわけだ。「相手の課題を請け負わない。彼・彼女の課題として返す」の、それである。

「そこまで知恵が回らないのか?馬鹿じゃないの?!」
「(43)たくましさ」で登場した、あのかたつむりが怖い文武両道の強面の同級生の奴に掛けた言葉である。入院させられたらしい。規則を破って、携帯で電話してきた。血液検査で血糖値が高くて、その場で入院させられたとのこと。何の点滴なのか知らないまま打たれていて、私が怒鳴ったのだ。説明を受けて、わかった上で、「じゃあ、お願いします」というのが常識である。そんな訳のわからない知らないものを身体の中に入れるなんて無知である。
「かたつむりぐらいが怖いくせに、何だか知らないものを身体の中に入れるなんて怖くないのか?お前は馬鹿か?」
放っておけなくて、仕方なしに見舞いに行くことにした。
「俺、やり直せるかなぁ・・・」
来た。苦手なあの質問だ。
「節制して、食べ物我慢して、規則正しい生活だけど・・・」
「馬鹿か?お前は!ビールだよ!ビールが血糖値を上げてるんだよ。それに気づいていないお前はやり直せないよ。禁酒!これを守れないなら、やり直せないよ」
友人だからか、奴自身の課題の答えを出してしまった。
これは甘やかしているのか・・・いや、腹が立ったから怒ってしまったのだ。
「このままでは、生きられませんよ」
主治医のひと言が効いたらしい。奴はかたつむりと糖尿病は怖いらしい。

「やり直せるか?」
人はとことん弱いのだ。禁煙が急務であるにも関わらず、つい煙の誘惑に負けてしまう。「今日こそ!」と意気込んでパチンコ屋へ・・・。散々に負けて「もう二度とやらない!」と、その日だけの決意をする。
「やり直せるか?」
それは課題に向き合えるかどうかに掛かっている。
「これとあれを必ず守る」
これは課題に向き合ったことにはならない。
決めたとしても、強い「動機」に支えられなければ「目的に到達」しないからだ。その「動機」を高める必要がある。「何故そうしてしまうのか?」そんな自分の中にどんな「弱さ」があるのかを知ることが第一なのだ。その「弱さ」が求める「何か」が、アルコールであり、ニコチン・パチンコなのだ。これら全て、それを摂取した時の「快」・「興奮」を求め、切れた時の「不快」をまたそれらで埋める訳である。「弱さ」は仕方ないのだから、それで良いのだ。求めるものを他に置き換えることだ。同等の「快」を得られる、害のない「何か」にである。ある種の「置き換え」をすることだ。

自身の「弱さ」と向き合い→ その「弱さ」を埋める為に「何」を求めたのか?→ それは合理的で正しいか?→「弱さ」を埋める為に「何」が良いのか、幅広く求める。これで「動機」は十分に強いものとなるはずである。

失敗してもいい。
弱くてもいい。
人は「動機」さえ生まれたなら必ず「やり直せる」はずだ。その「動機」を生む為の道さえ作れば大丈夫なのだ。「動機」は「やり直し」人を変えることの出来る、唯一のエネルギーを生み出すからなのだ。


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