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架空の球を打つとき、その瞳は何をとらえる。

夏の風物詩、甲子園が開幕した。
高校球児たちの2度とこない夏が、連日メディアで取り上げられている。

私は野球にそこまでの見識はないが、夫は甲子園出場経験もある本格派だ。
なので、結婚したときから、この時期の夜のすごし方は、夫婦で熱闘甲子園視聴と決まっている。

高校野球の魅力は、なんといってもドラマ性。
マンガの登場人物のような各校のエース達が、これまたマンガのようなサヨナラ逆転、あと一歩の惜敗にむき出しの感情をのぞかせる。

作り物にはない、あのリアル。
少年たちの熱い夏と抱えるドラマに、野球ファン以外の大人も胸を躍らせ涙を流す。

私も甲子園が大好きだ。
特に好きなシーンは、バッターサークルでの「素振り」

テレビで覗く彼らの鼓動を、もっとも近くに想像できるモーションなのだ。

素振りの意味あい

多くのスポーツ競技に「素振り」という練習方法が取り入れられている。
ラケット競技はもちろん、柔道の投げ技、バスケのフリースロー前のモーションなど、架空または仮想の相手・場面を心の中に描きつつ、本番へのイメージ力をアップさせ、フォームを整えるための練習技法だ。

私は剣道をやっていたが、剣道にも素振りはつきもの。
毎回練習の序盤に体操の延長として行い、筋力向上などの基礎トレーニングの代表格だった。

試合直前に調子を確かめるためにも行うが、この場合、大きく力を抜いて、2割程度の力みで素振りをおこなう。

例にあげた他の競技もそうであると思う。
テニスや卓球で、試合の合間にみせる素振りも、体操選手が出番の直前に行う助走も、すべて目的は「確かめるため」であるから、誰も本気のパフォーマンスなどみせはしない。

しかし高校野球はちがう。
バッターサークルやベンチ前で自分の打席を待つ間、彼らの多くは肩が外れんばかりのフルスイングを披露する

同じ野球でも、プロ野球選手の場合は、ほどほどに流すような「確かめる素振り」をするのに、だ。

この違いは何だろう。
高校球児たちは、ピッチャーのいない架空の打席で、なぜ全力でバットを振りぬくのだろうか。

打ちたいのは、架空の球より、脅威の気配。

高校時代、部活に最大の熱量を費やした人間ならば断言できるだろう。
「あんなに特別な時間はない」と。

若くて水分に満ちた心は、少しの振動で大きく揺れ動き、その揺れの大きさに比例して、器からこぼれるときの勢いも増す。
年齢を重ねると、カラダが老化して水分量が減るが、それはココロも同じではないだろうか。

まだ経験が少なくて、底の深くない器にナミナミと注がれた透明な液体が、自尊心にプレッシャー、虚栄心や孤独感にゆすぶられて、あっちにグラグラこっちにチャポチャポ、色を変えながらねじれていく。

その液体は、特に他人からの評価に敏感で、同年代の立派な器をみたときには、震えあがるように水面が波打ってしまう。

思春期の多感な時期を、私はこんなふうにイメージしている。

そしてあの健全さをかき集めたような、精悍な高校球児たちも、そんな思春期のさなかにいる。
彼らは少年から青年への変換期に「野球」という共通のモノサシで他者とモロに比較されている。

「ここで打てばスーパースター」
「ここで打てなきゃ一生後悔する」

「あのピッチャーだって同じ高校生だ、大丈夫!」
「ほんとに高校生かよ、信じられない…」

「自分を信じて思い切って振れば打てる!勝負だ!」
「ダメだ、俺に打てるわけない、逃げ出したい」

2極化する、どちらも真実の想いに揺れて、自分の打席を待つ。

力を込めて素振りをする、その姿が美しい。

若者特有の、骨ばった細い身体は、努力を裏付ける褐色の肌に包まれて、
刈り込んだ髪の毛と工芸品のように完璧なラインを描くシャープなアゴが、
不安と期待、情熱と冷静、野望と逃避に揺れ動きながら、そこにある。

彼らは大人にない嗅覚でハッキリと、背中合わせの天国と地獄のにおいを感じている。

自分の中にある黒いモヤをなぎはらうために、彼らはバットの柄を握り、あらん限りの誠実さで空を裂く。
ブンッと空気の振動が耳に届くたび、戦ってきたみえない何かに、少し打ち勝てた気分になるのかもしれない。

だから、高校球児の素振りは、こんなにも胸にささる。
数分後にやってくる「運命の時」を前にして、架空の球にまとわりつく、すべての脅威を打ち返している。

高校生。まだ10代の彼らの「精一杯」が暗いなにかに囚われることがないように、あの素振りが、雲を晴らして未来をも切り開くように、遠い空の下から、願わずにはいられない。


記:瀧波和賀

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#高校野球 #甲子園 #青春 #コラム #部活

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