め

親の「苦手」がキミに目隠しする前に

ずっと、「デジタル」が怖かった。
子供の頃から、ずっとだ。

パソコン、クレジットカード、ハイテク家電…
現代人の生活に根差している品々から、電子カルテや人工知能など、ITっぽく最先端の技術が搭載されている"何か"が、私は長年、怖かった。

過去形で書いているけれど、webメディアで働く現在も、完全には払拭できていない。
なにか未知のデジタルに触れる時、私の足は恐怖にすくむ。

新ツールを導入するとき、新システムを稼働するとき、動悸に似た胸の詰まりが、喉から胃までを埋めつくすのだ。
ウッと苦しいプレッシャーがのしかかる。

落ち着いて説明文を読み、ひとつずつ進めていけば、たいてい大きな問題はおきないし、数日たてば、なんでもなく使いこなせる場合がほとんどなのだが、何度ヤマを乗り越えようとも、「もう大丈夫」とはならない。

そのイメージは「暗闇」に近い。

デジタル界からやってきた新人に出会うたび、暗闇の中を手探りで進まなくてはいけないような、不安で居心地の悪い緊張感が満ちてしまう。

この感覚は、「相性」または「アレルギー」なのだと思っていた。
私はきっと、デジタルと相性が悪いのだ、と。

しかし最近、相性の中身を考えた記事も書き、この感覚に、やっと正しく名前をつけられた気がする。

対デジタルで発揮される、暗闇のような先の見えない不安感の正体。
それはすばり、根深い「苦手意識」だ。

「苦手意識」はどこからくるの

デジタルの他にも、苦手意識を持っているものがいくつかある。
グリンピース、ボーダーの服、おばけ・オカルト現象全般。
いくつか思い浮かべたときに、ハッとした。

これらはすべて、私の母親が苦手としていたものだった。

母はゲーム機などの電子玩具を嫌悪し、あれだけ流行った「たまごっち」も、頑なに買ってくれなかった。

「こんなもの、ロクなことにならない」とクレジットカードを拒み、プリントアウトされた年賀状の宛名を、「心がこもっていない」と否定した。

その価値観を模範として育った私には、自動化・機械化され、手にとれないところで情報が処理される"デジタル"に対して、得体が知れず、非道徳的な側面すら持ち合わせた、「よくわからないけど、すごくよくないもの」という認識が根付いた。

大人になり、そんなことないよ便利だよ、という見識も手に入れたはずなのに、いざ対面すると、こびりついた苦手意識がむくっと起き出し、勝手に警報器を作動させる。

だからあんなにドギマギして、漆黒の闇を感じるのだ。
しかし、デジタル世界そのものが暗いわけではない。得意な人もたくさんいる。

それでも暗闇に見えたのは、きっと、私の目のほうに、きつく目隠しがされていたのだろう。
そんなつもりはなかったはずの、母の手によって。

そして気付く。
この「苦手の目隠し」はどんどん連鎖していくのではないのか。

私は今でも、デジタル全般が苦手で恐い。
この気持ちは、気付かぬうちに、私の手に小さな目隠しを握らせていて、娘に結び付けるチャンスを、静かに探しているんじゃなかろうか。

ドキリ、とする。

確かに私は、周囲のママ友に比べて、子供がテレビやスマホに接触することに、神経質なように感じる。
YouTubeなど見せたことはないから、娘はスマホで動画がみれることも知らないはずだ。テレビもつけない日が多い。

自分が「苦手」を感じるものから、自然と遠ざけているのだ。

まだ2歳なので、必要がないといえばそうなのだが、こんな調子で、いざ「必要なとき」にスッとギアを切り替えられるものだろうか。

自分でもウンザリしている、デジタルに対する強力な苦手意識を、よりデジタルな時代を生きていくであろう娘に引き継がないためには、いったいどうしたらいいのだろう。

親が苦手なことを、どうやって子供に教えるか

どんな親にも、苦手なものはあるはずだ。
運動が苦手な人、音楽が苦手な人、勉強が苦手な人…。

自分自身は苦手のままでも、まぁいいか、と思っても、子供にはそうなってほしくないのが親心だろう。

打開策を考えていると、学習塾でアルバイトをしていた頃を思い出した。
通塾を決める親御さんの代表的な動機は「自分も勉強が苦手だったから」なのだ。

そうか、習い事の有効活用こそが、子供に目隠しをしない、ひとつの道であるかもしれない。
勉強に苦手意識をもつ親御さんに代わり、大学生の私が、学習指導をしたように。

私に結ばれた目隠しは、無知ゆえの恐怖が根底にあるので、デジタルのポジティブイメージを、楽しく学習できるとありがたい。

ぬいぐるみとも絵本ともちがう、機能性ときっぱりしたルールがこのジャンルの魅力であるから、IT教育と言うと敷居が高いが、生活の中にデジタルを溶け込ます視点を、娘には学んでほしい。

幸いにも、現代は30年前にはなかった、子供むけのデジタルサービスも多く、自社にも未就学児から通えるIT系ものづくり教室が存在している。

「デジタルとアナログ」。
この境界線がクッキリしすぎてしまう前に、それぞれの良さを当たり前に体験することが、私がにぎっている目隠しを、お役御免にするかもしれない。

義務教育がはじまる前に、学習を習慣にするように、苦手意識がやってくるよりもはやく、好き!や、楽しい!の箱にデジタルを仕分けておくのだ。

"デジタル"は人間につめるエンジン

子供は「成果物」によって自信をつける。
自作のぬりえやおりがみを、誇らしげに見せにくる、あのキラキラした瞳は、達成感と歓喜に溢れている。

これがデジタルなものづくりになると、PCや各種ツールを活用することで、さっきまで動かなかったロボットやイラストに、命を吹き込んだように動作を与えることもできる。

描いたイラストが静止画のままで終わらない、組み立てたロボットが鑑賞用だけで終わらない。
この感動は、幼い心に自信をつけ、偉大な技術への憧れもつれてくる。

とってつけたような市販の「ワクワク」じゃなく、自分で考えつくりだしたオリジナルの「ワクワク」は、未来を明るく照らすかもしれない。

人間が走る速さには限界がある。
車のように、物理的なエンジンをつんで加速することはできない。

しかし、「やってみたい」「こんなのはどうだろう」という創造力や発想を"エンジン"に変え、アイデアを形にし、夢にも思わなかった、遥かな場所に人々を連れていくことが、デジタルの力なのだ。

こんなにデジタルの力を感じていても、私の頑固な目隠しはなくならない。
それだけ、幼少期に親から受ける影響は巨大なのだろう。

娘が将来、なにを選びどんな人生を歩むのか、私は知らない。
コントロールするものでもないと思う。

だからこそ、親の苦手を引き継いで、選択肢が狭くなるようなことがないように、自分の目隠しを自覚した今、あの輝く瞳で、世界を見回すことができる準備をしていたい。

この手が握る透明な目隠しが、少しも届かない遠くまで、娘を連れだす、エンジンがほしい。今年のサンタには、そうねだっている。


記:瀧波 和賀

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