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「待つ時間」もたった一度の"今日"なのだけど

今年のはじめに引いたはずの「おみくじ」の内容を、まったく思い出すことができない。

おみくじはすごい。
既存の紙コンテンツで、あんなにも断定情報だらけのものは多くないし、何千倍もの紙面積とカラー印刷、デザイン性を携えた雑誌が600円でなかなか売れない中、ぴら1枚のおみくじは、200円でバンバン売れる。

「神様の近くで巫女さんから購入すること」に価値があるので、オンラインサービスに押される気配も、まったくない。

すごいぞ、おみくじ!
唯一無二だぞ、おみくじ!
ボロ儲けだぞ、おみくじ!!

と、ひたすらにバチ当たりな発言をかましてみる。

なんでこんな話をしているかと言うと、ここ数日「待つ」という時間について、考えているからだ。

おみくじというコンテンツに盛り込まれている、旅行運、健康運、金銭運などの項目の中で、注目度の高いものが「待ち人」ではないかな、と個人的には感じている。

おみくじには「結婚運」の項目もあって、年の後半がいいでしょうとか、避けましょうとか書いてあるのに、「恋愛運」の表記はない。

そこは現代表現に寄せずに、「待ち人」がくるのかこないのか、いつ頃くるのか、じれったくも色気のある示唆をしてくれるのだ。

私はいま、11か月前に読んだはずのおみくじに書いてあった「待ち人」の項目を読み返したい。

何吉だったのかも忘れてしまっているのだから、到底思い出すことは叶わないのだけど、季節を遡って、手繰り寄せたい気持ちだ。

それくらい、いま、「待つこと」に寄る岸がなくて、困っている。

「待つ時間」は日常がなんか、ぎこちない

何をそんなに待ってるかと言うと、まぁいろいろだ。

仕事では、大きなものから小さなものまで、自分より裁量権のあるセクションの決定を待っている案件が多く、忙しいのに宙ぶらりんだ。
落ち着かない。

本業以外の書くことも、noteのコンテストに3つも応募してしまって、すべて審査中なので気になっている。

手ごたえなどまったくなかった記事もあるのだけど、そこは宝くじと同じで、応募して参加権を持ってしまったからには、「もしかしたら」が頭をかすめる。

自分でも「イマイチだな。こりゃ箸にも棒にもかかりませんな~」と思っているくせに、知見のある誰かが、私にはない評価基準をもってして、むむ、こりゃ素晴らしい!と、どこかで掘り起こして絶賛しているかもしれない…なんて、浅ましい妄想は、私の脳内をいたく気に入り、足を伸ばして寛いでいる。

運動不足のくせに、お菓子でも食べているんだろうか。
この妄想くん、日に日に肥えていっているようにも感じる。

先日参加した、ほぼ日の塾も、この先にすすめるのか結果待ちだし、いくつかお受けした執筆依頼も、細かいオーダーを待っている状態で、あとは書くだけ!な案件がない。

いま、私のステータスは「待つ」が飽和している。

宇多田ヒカルじゃないけれど、私も待つのは得意じゃない。
どちらかといえばせっかちだし、先のことがわからない状態をストレスに感じる性格なのだ。

だからこうして、「待つ」が膨れ上がってくると、普段から丁寧というわけではない「日常の生活」が散らかる…まではいかなくても、ちょっとぎこちない感じになってくる。

自分にボールがないタスクに気を揉んでいる瞬間が増えるので、食べ物の味に感度が落ちたり、興味範囲というか、視野が狭くなってくる。視点や発見も凡庸になる。

これは待つことの二次障害みたいなものなんだけど、勿体ないなぁーと思いつつ、どうにもならないので、より一層モヤモヤする。
すっごくすごく、苦手な時間だ。

「2人目」を希望する、自分的ハードル

複数の「待つ」によって私の日常が少し不自由になっている影響は、育児にも表れている。
ここ数日、娘の写真を撮る機会が減っているのだ。

私はデジタルよりアナログが好きなので、生まれた直後から、毎日のように娘の写真を撮り、マメに現像しては、日記代わりの手書きアルバムを制作することが趣味になっている。

過去分を振り返っても、「待つストレス」があったのだろうと思われる時期には、アルバムの日付が飛びがちだ。

じつは自分のこの性質を自覚してから、「2人目」をためらう材料になってしまっている。

2人目を妊娠すれば、出産までの期間を「待つ」ことになる。
人生の中でも、指折りの「心配度が高い待つ時間」だ。

しかしながら、私が妊婦になり、出産をヤキモキ待っている間にも、娘にとってたった一度の「2歳の時間」「ひとりっこの時間」は消費されていってしまう。

特に妊娠経過の悪い妊婦だったので、もしかしたら長期入院や自宅安静になるかもしれず、そうなると、「まだ見ぬ2人目」のために、「常に進行中の娘のいま」をぞんざいに扱うことになるような気がしていて、「仕方ないよね」では済まされない、ぐちょぐちょの想いがある。

さらに、産んでからの「新生児のお世話に必死な時間」や「寝不足でぼーっとする時間」も娘にとっては、どんどん成長していく、その時だけの不可逆な瞬間であって、2人目が人間っぽく成長するのを待ってあいだ、私は自分のぎこちない育児にダメージを受けそうな気がしているのだ。

そんなこと言っても、兄弟がいたらいたで楽しいことがあったり、赤ちゃんのお世話を通して娘の意外な成長が促されたり、手が届きすぎる一人っ子はワガママになるとか言われたり…

家族の人数が変わることは、いい面がたくさんあって幸せで、でも不自由な場面もある。そうゆうものだと思う。

妊婦さんや赤ちゃんの2人目を育てている人に対して「上の子をおろそかにしているわ」なんて、間違っても思わないけど、自分の中で「待つ」に比重を取られすぎて、バランスが崩れることを、私は恐れている。

もうひとり子どもを…と考えるとき、お金や育児の手や住環境や健康状態など、多くの要因が問題としてあげられるけど、私にとっては、この問題が一番大きい。

そう認識できたことが、待つ飽和にフガフガしている現在の、一番の発見かもしれない。

私の「待ち人」は、果たして来てくれるのだろうか。
思い出せないおみくじに、想いを馳せても埒があかない。

もういっそ、靴をはいて、自分から探しにいってみようか。
3年落ちのムートンブーツで見つけ出せるか心配だけど、たった一度の今日という日を、私や娘の、二度とはないこの一日を、「待つ」に支配されているのは、やっぱり悔しい。

「待つ」よりも「今日」の存在を感じるために、明日は早起きな娘と一緒に、朝からホットケーキを焼いて、はちみつをかけて、ガハガハ笑いながら幸せな朝食を食べよう。

そして娘の好きな場所に遊びにいって、写真をたくさん撮りたい。
待ってることを忘れるくらい、温度の高い冬の一日を送るが「吉」。

記憶の底で眠っているおみくじには、きっとそう書いてあったにちがいない。


記:瀧波 和賀

cakes連載最新話です^^
赤ちゃんにXmasプレゼントは不要? モヤってしまう親心。

#育児 #エッセイ #おみくじ #待ち人



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