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「電車で泣く赤ちゃん」に思うこと

電車やバスなど、公共の乗り物で、赤ちゃんや幼児が泣いたり騒いだりすることは、数年前からたびたび議論にあがっている。

この問題は発生頻度も認知度も高いが、収まりのいい終着点はまだ存在していない。

最近もTwitterで、男性と思われるアカウントが、ご自身が遭遇した状況に苦言を呈したところ、さまざまな声が散見された。

発信者に同調し、赤ん坊の泣き声ウルサイですよね、あやさない親はむかつきます、これだから最近の親は!という意見もあれば、
赤ちゃんはどうしたって泣くときもある!子供に不寛容な社会がわるい!と怒る人もいる。

私も子どもがいるので、主に後者の意見が多く伝わってきたのだが、そこに込められた、育児当事者たちの怒りは強い。非常に、強い。

電車に限らず、いかに普段から窮屈な気持ちで育児をしているかを切々と語る方もいれば、こんな世の中じゃ少子化すすんで当たり前でしょ、とこの国の未来を嘆く方もいる。

便乗なので申し訳ないが、私はどう思っているんだろうなーと、自分の考えをまとめてみたい。

記事中にこの文言を入れることは、やぼったいのでイヤなのだけど、今回はホットコンテンツなので、本文をお届けする前にお伝えしたい。

この記事は個人の思想に基づいたものであり、私の所属先や雇用先の公式見解ではありませんので、悪しからず。

現象・感情・権利の区別を明確に

まず、「赤ちゃんが電車内で泣く」という現象がある。

これに関して、言葉が話せず、意思疎通ができないのだから、どうやっても泣き止まないことはあるよ、という言説は正しいと思う。

満腹でオムツも変えたし、眠い、暑い、寒いわけでもなさそうなのに、ひたすら大声でむせび泣く0歳の娘を抱っこし、30分以上「無」になった経験は、私にも、ある。

すべての赤ちゃんがそうではないが、「泣き」がコントロールできない赤ちゃんが一定数いるよ、は事実だ。

なので、この現象を知らずに、「親の努力で絶対に泣き止むと思っているから、親を叱責する人」は、単純に認知が入ればクリアーだ。知らなかったんだもの、仕方ないよね。

とはならないから、この問題はこじれている。

私の肌感ではあるが、育児経験のない方であっても、多くの方に「赤ちゃんを大人の都合で泣き止ませることなんて無理」は周知だ。
そのうえで、なお、親を責めている。

「現象」への理解があるのに、事態が収束しないのは、「感情」が大きく作用しているからだ。

なので次の論点は、赤ちゃんの泣き声がうるさく感じて「不快だ」という感情

この感情もまた正しい。
生命維持のため、そうゆう仕組みになっている。
よほどの子ども好きや、自分も電車で泣かれて困ったことがある、のようなストーリーをもっていない限り、他人の赤ん坊の泣き声が継続的に聞こえることは、普通に不快だと思う。

育児サイドとして、この感情を真っ向から否定しにいく方もいるのだが、個人的には、あまりいただけない。

「赤ちゃんの泣き声はむしろ癒されるのに!」「泣くことが仕事なのにうるさがるなんて、信じられない!」という意見は、「迷惑がられて悲しい」という感情の裏返しでもあるのだが、相手の感じ方そのものにNOを突き付けてしまっては、その先にいい議論は生まれない。

我が子の泣き声が騒音のように扱われることは残念だが、しかし「うるさいな」と他人が感じることは、生物学的にスタンダードで、決してひどい人、イジワルな人というわけではないので、そこは受け入れたい。

「泣き止まないかもとわかってるけど、不快なものは不快なの」が、現象+感情の、非育児サイドの主張である。

うんうん、わかる。そうだよね。
ここまでであったら、私は何ら問題を感じない。妥当だし、納得できる。

しかし。しかしだ。
この先に「だから赤ちゃん連れで電車に乗らないでね」や「子連れは迷惑をかけないように、最大限の努力をしてね。ベビーカーも邪魔だから使わないでね」まで言われると、それには「待った!」と思ってしまう。

ここから先は「権利」の話になるからだ。

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