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『「介護時間」の光景』(201)「風景」。4.10。

   いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


介護時間の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 個人的な経験にすぎず、細切れの記録になってしまいますが、それでも家族介護の理解の一助になれば、と考えています。

 今回も昔の話で、申し訳ないのですが、前半は、19年前の、2004年4月10日の話です。後半に、2024年4月10日のことを書いています。


(※ この『「介護時間」の光景』シリーズでは、特に前半部分の過去の文章は、その時のメモと、その時の気持ちが書かれています。希望も出口も見えない状況で書いているので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば幸いです)

「通い介護」

 1999年から、母親に介護が必要になり、介護中にいろいろとあって、2000年には、自分自身も心房細動の発作になりました。医師に、「過労死一歩手前です。もう少し無理すると死にますよ」と言われたこともあって、母に病院に入ってもらうことにしました。自分が病気にならなかったら、ずっと家でみようとしたのかもしれません。

 その頃、妻の母親(義母)にも、介護が必要になってきましたが、私は、母親のいる病院に毎日のように通っていました。帰ってきてからは、妻と一緒に義母の介護をしていました。

 そして、仕事をすることを諦めました。転院してからも、母親の状態は波があり、何の前触れもなく、ひどくなり、しばらくすると理由もわからずに、普通に話ができるようになったりしました。

 医学的には、自分が病院に通っても、プラスかどうかわかりません。だけど、そのことをやめて、もしも二度とコミュニケーションがとれなくなったら、と思うと、怖さもあって、ただ通い続けていました。これは、お見舞いといったことではなく、介護の一種であり、「通い介護」と名づけてもいい行為だと思うようになったのは、それから何年かたってからでした。

2004年の頃

 2004年の前半は、母の状態も安定していて、病院に通う頻度を少し減らしても、大丈夫なように思えていました。

 少し先のことが考えられそうな気がしていたので、気持ちまでやや明るくなっていたような時でした。

 その頃の記録です。

2004年4月10日

『駅のそばから、病院の送迎バスに乗る。

 20分くらいかかる。

 乗っている人が、珍しく私一人だけだった。

 午後4時30分頃に、病院に着く。

 母はベッドに横になっている。寝ているわけでもないけれど、テレビもつけていない。

 そのあと、あいさつをして、テレビをつけて、母が興味があるような場面に気を付けながらも、一緒にゴルフのマスターズを見てから、少しサッカーを見る。

 病院の廊下を母と一緒に歩いていたら、この病棟の中で入院以来、母と交流があるようになった患者さんに「しっかり頼むわよ」と笑顔で言われる。

 あいまいに笑って、おじぎをする。

 どうして、急に、言われたのだろう。

 夕食は45分。ゆっくり食べている感じだった。

 午後6時過ぎでも、窓の外はまだ明るい。

 部屋の花が新しくなっている。いつもこの病棟で会う、毎日のように通ってきている患者さんのご家族にいただいたようだ。すっかりご近所づきあいのような感じになっている。私も、作り過ぎたから、とおかずをいただくことまである。

 午後7時頃に病院を出る。

 この前、独身である弟の結婚について、結婚相談所が云々など、いろいろとこだわっていたのだけれど、今日は、その話は一切出なくて、ちょっとホッとした。まだ、次のときにどうなるのか分からないのだけど』。

風景

 私鉄に乗る。

 窓に日よけのカーテンというより、グレーのスクリーンみたいなものがある。太陽が強くさして、それを引き下げると、向こうの風景が4分の3カット、みたいな感じの薄暗さになる。

 それだけで同じ風景が変にリアリティーをなくす。風景が動いていたり、止まっていたりの変化も、分かりにくくなる。

                   (2004年4月10日)


 その後、2004年の10月に母の肝臓にガンが見つかり、手術もして、一時期は回復したものの、その翌年に再発し、母は2007年に病院で亡くなった。

 それからも、義母の在宅介護は続けながら、心理学の勉強を始め、大学院に入学し、修了し、臨床心理士になった。介護者への個別で心理的な支援である「介護者相談」も仕事として始めることができたが、2018年の年末に義母が103歳で亡くなり、突然介護が終わった。昼夜逆転の生活リズムを修正するのに、思ったよりも時間がかかり、そのうちにコロナ禍になっていた。


2024年4月10日

 今日は天気がいい。

 天候が気になるのは、このところ雨が多くて、不安定で、気温も下がったり上がったりしていたせいもあるし、洗濯物がたまっていることもある。

 青空で、柿の木の葉っぱも育ってきてきれいな緑色になっている。

 洗濯機を2回回せた。

 この前の日曜日が桜満開でピークだと思って、妻と一緒に近所の河川敷を歩いた。それから雨も降ったし、風も強くて、もう桜も散ったのではないかと思っていた。

 洗濯物を干している時、近所の幼稚園から子ども達が列を作って歩いてきて、角を曲がったら、「さくら、きれいー」という声が聞こえてきた。

 庭の隅に行き、河川敷の方向に高校があってその前の桜並木を見たら、まだ桜はかなり咲いている。

 思ったよりも桜の花は健在だった。

 平日でも、花見をする人はするのだろうと思うくらい咲いていた。

合理的配慮

 今年の4月から「合理的配慮」が義務化される。

 障害のある人に対して、申し出があったりした時、それを特別なサービスとしてではなく、その障害ができるだけ障害にならないように、事業者側が配慮しなくてはいけない。という法律で、それはある意味で臨機応変でもあるから難しいとも言えるけれど、それでも法律で義務化されたのはいいことだと思う。

 これは、公平、という誰にでも同じようなサービスを提供する、思想ではなくて、その人の申し出によって、必要とするサービスを提供する、ということになるから、公正という視点から考えた方がいいのだと思える。

 この「合理的配慮」に関して、大事な指摘を目にした。

 「合理的配慮」という内面に関わる表現ではなく、「合理的調整」という言葉にした方が、元々の意味合いにも近いのではないか、ということだ。

「しかるべき調整」は、端的に個々人がいだく「しんどさ」とは無関係に、粛々と作動するべき公共的なインフラにほかならないからです。

(「〈公正〉を乗りこなす」より)

 これは、ハッとするような話だった。

 つまり「配慮」になってしまうと、自分の対応、特に内面的なことまで問われ、どうしても「しんどさ」につながってしまうのだが、「調整」という言葉を使えば、もっと冷静で、つまりはより役にたつサービスを提供すればいい、という具体的なこととして考えられそうだからだ。

 もしくは、個々人に「配慮」を強いるのではなく、障がい者の人が、申し出をしなくても他の人と同様に行動できるように、社会のシステムそのものの「調整」を進めればいい、という話もしやすくなるかもしれない。

 ただの言葉の違いだけど、それだけで、そこに関わる人の心理的な負担が減る可能性があることを、教えられたような気がした。



(他にも、介護のことをいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)



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